7)西洋蜜蜂、小笠原島から日本全国へ


 その後の小笠原島の西洋蜜蜂を知る史料として、玉利喜造の養蜂改良説第2版に次のような記述があります。

 

 (明治)23年は蜂群相応に繁殖したるも・・・米国及び小笠原島より伊太利種を得たる・・・ 24年に得たる蜂群は直ちに転換巣箱に移し・・・ (p133~4)

 

――>養蜂改良説の写真準備中

 

養蜂改良説(玉利喜造、明治22年、1889、筆者所蔵)

  

 次の2書にも下記のような記述があります。

  

養蜂新説(花島徹吉、明27、1894、農科大学教授玉利喜造校閲 )

養蜂講義(青柳浩次郎、明治40年、1907)

 近年玉利農学士、青柳浩次郎らは、小笠原島より本種(イタリアン)を輸入して、繁殖するにいたるべし  (序文)

 

 明治23、4年の両年に玉利喜造氏が小笠原諸島から2、3度イタリア蜂を取り寄せて農科大学で飼育しました。わたしも明治25、6、7年の3年間、十数箱のイタリア蜂を同島から取り寄せて飼育を試みました。その後、種々の人により数々小笠原島より輸入されました。  (p25)

 

 

――>養蜂新説、養蜂講義の写真準備中

 

養蜂新説(花島徹吉、明27,1894、群馬県立図書館所蔵)

群馬県立図書館のホームページはこちら

https://www.library.pref.gunma.jp/

 

 

 

 

養蜂講義(青柳浩次郎、明治40年、1907、筆者所蔵)

 

 

 2書の記述内容を整理すると以下のようになります。

 

○近年玉利農学士、青柳浩次郎らは、小笠原島より本種(イタリアン)を輸入して、繁殖するようになった。

養蜂新説の出版が明治27年ですから明治27年頃までの状況と思われます。青柳浩次郎の記述内容と完全に一致します。)

 

○明治23~24年に玉利喜造が2~3回取り寄せ(群数不明)農科大学で飼育した

 

明治25~27年の3年間に青柳浩次郎が15~16群取り寄せ飼育を試みた。

 

青柳浩次郎は明治45年発行の養蜂講義第4版で次のように記述しています。

 

著者は小笠原島からも米国または原産地からも蜂群及蜂王を取り寄せて試験し己に20年近く伊太利亞蜂を飼養して居るが・・・・  ( p28)

 

青柳浩次郎は養蜂講義初版p25にありますように20年前の明治25年~27年の間に小笠原島からイタリアン種を15~16群移入しました。ですから、明治45年時点でイタリアン種の飼育歴20年となります。学生として玉利喜造博士のもとにいた分も加えると、イタリアン種の飼育歴は、実際には22年となります。

 

明治24年を以て玉利喜造の養蜂試験は終わり、その後は、青柳浩次郎は独自に養蜂を進めました。明治27年には既に静岡県に養蜂場を構えイタリアン種の繁殖の全国普及活動を開始しています。

 

――>種蜂販売(イタリアン種)青柳養蜂場(静岡県)明治27年の広告写真準備中

 

○明治28年以降、種々の人により数々小笠原島より輸入された。(養蜂講義は明治40年出版なのでその時点までの状況。)

 

明治40年時点での小笠原島の西洋蜜蜂について以下のような青柳浩次郎による言及があります。

 

一時百数十箱に至りたが或る事情の為め漸く衰運に向いて今日では数十箱になった。

(養蜂講義、青柳浩次郎、明治40年、p24)

 

“ある事情”とは 餌切れと本土への移入過多だったことが明治39年出版の小笠原島志から判明できます。次のようにあります。

 

 其後漸次に分封して二百箱の多きに達せしが飼料給せざるにより蜂の餓死せしものあり、又数度内地に輸出せしにより減じて八、九十箱となり・・・ 

(小笠原島志、明治39年、1906年、山方石之助著、小花作助閲? p597)

 

 小笠原島の西洋蜜蜂は青柳浩次郎以外のさまざまな人々からも本土に逆移入され日本全国に普及していきました。本土への逆移入は明治45年頃まで続いたようです。本土への移入記録は以下のようです。

 

1908年(M41)13群  

1909年(M42)20群以上

1910年(M43)30群

1911年(M44)22群  

 

 この頃の小笠原島養蜂の様子について、東京府編の小笠原島総覧には次のようにあります。

 

 明治45年頃は最も養蜂の盛況を極めた時で、単に採蜜を為すのみでなく、種蜂として盛んに移出せられ・・・  (小笠原島総覧、昭和4年、1929年、東京府編、p262)

 

 

小笠原島でも定着

 

 その後も、小笠原島の現地でも養蜂は盛んとなり、大正14年には61戸で171群飼育されていたとの記録があります。まさに1家に1群(と言うより3群)の状態でした。 (――>小笠原島総覧p262)  

 

 小笠原島の蜜蜂は盛んに自然分封し、岩場等に営巣し捕獲されずに野生化するものも多くありました。東京府編の小笠原島総覧には次のようにあります。

 

 本島は四時蜜源の絶ゆる事がないので、頗る養蜂に適し、繁殖も旺盛で分封群なども、森林中に入って樹洞内に繁殖し、野生的状態になったものが少なくない。  (小笠原島総覧、昭和4年、1929年、東京府編、p262)

 

 これらの群はそこに代々住み着き、あるものは現代までその系を繋いでいます。

 

――>岩場での生息実態写真準備中

 

 

渡邊寛の小笠原蜜蜂購入の検証

 

 次の章に行く前に、ここで検証しておきたいことがあります。それは渡邊寛小笠原蜜蜂購入についてです。日本養蜂協会ホームページに次のような記述があります。

 

 渡辺寛は、明治40年(1907)に渡辺養蜂場を創設して、養蜂の専業化を図りました。小笠原島から、イタリアン2群を、1群100円で買い入れ、さらに翌年大量に移入し、これを基本として、欧米の優良品種の輸入を開始し、増殖を図りました。 

(日本養蜂協会ホームページ:日本の養蜂の歴史より)

 

 これは、力富千蔵著「ある養蜂家の生涯」p28-29を参考に記述したものと思われます。力富千蔵著「ある養蜂家の生涯」によれば、渡辺寛は、明治40年(1907)に渡辺養蜂場を創設したものの、日本蜜蜂を8箱所有するだけでした。開業資金は銀行の退職金と貯金を合わせて百何十円しかありませんでしたが、明治40年2月21日、和歌山県の貞市次郎を訪ね日本蜜蜂15箱を総額51円で購入しました。その内4群は全滅、結局手持ち群と合わせて17群でのスタートでした。力富千蔵はさらに、次のように記述しています。

 

 翁(渡辺寛のこと)は次第に経験をつむにつれて、“在来の日本蜂では駄目だ。どうしてもヨーロッパ蜂でなくてはならぬ”と痛感。明治40年6月、遂にヨーロッパ種蜜蜂の買い入れを決意するにいたった。(中略) ヨーロッパ種といえば、遠く小笠原諸島に手をのばすしかない。翁は早速そちらに連絡をとって、イタリアン2群を、1群100円の相場で購入することができた。  (p28)

 

 

1群100円について

 

 力富千蔵著が「ある養蜂家の生涯」で記述していることをまとめると以下のようです。

 

 日本蜂は交渉の結果15群を総額51円、相場より、相当安く)1群あたり3.4円で買えた。 イタリアン種は(品薄なので、相当高いことを言われるかと思ったが)相場通りの1群100円で購入することが出来た。 (カッコ内は筆者補)

 

 力富千蔵著が記述していることは、“日本蜂は相場以下で、イタリアン種は相場通りで購入できた”ということです。それ以上の意味や意図は読み取れません。当時の蜜蜂の相場は以下のようです。

 

           日本蜂          イタリアン種 / サイプリアン種 

 

    月

価格

    月

価格

5月、 6月、 7月

   6円

5月、 6月、7月

   80円

8月、 9月、10月

   9円

8月、9月、10月

  110円

11月、12月、1月

  11円

11月、12月、 1月

  150円

2月、 3月、 4月

  14円

2月、 3月、4月

  180円

 

 

ーー>当時の物価にていて準備中 

 

大量購入について

 

 力富千蔵はさらに、次のように記述しています。

 

 翌明治41年となって、いよいよ日本種に見切りをつけ、彼此切替の最終的決意を固めるにいたった。そこで小笠原島から再びイタリアン種の大量買い入れを断行、これに主力を注いで、大いに蜂群の増殖に努力した。  (p28)

 

 前後を良く読んでみると、明治41年に “日本種に見切りをつけ、彼此切替の最終的決意を固めるにいたった。”のであり、“小笠原島から再びイタリアン種の大量買い入れを断行”したのは明治43年です。“これに主力を注いで、大いに蜂群の増殖に努力した。”というのは渡辺寛のその後の生涯をさしています。

 

 蜂群の大量とは100群程度をイメージさせます。人によっては50群程度かもしれません。ところが力富千蔵著「ある養蜂家の生涯」を読み進んでいくと“小笠原島から再びイタリアン種の大量買い入れを断行”したことの詳細について、次のように記述されています。

 

 岩田太平治という男があって、牛と蜂を飼っていたが、翁は彼に小笠原まで出向いてもらって、イタリアン12、3箱を入手することができた。  (p29)

 

 ”大量”というのは明治43年に購入したとされる”12、3箱”のことでした。岩田太平治の小笠原島訪問については「小笠原島の養蜂状況」(岩田太平治、明治43(1910)、養蜂の友6月号、p15~17)があります。

 

 力富千蔵著「ある養蜂家の生涯」付録の渡邊寛年譜でも小笠原島からのイタリアン種の移入の時期と購入群数は以下のようになっています。

 

○明治40年6月、小笠原系イタリアンを移入

○明治43年秋、小笠原イタリアンを十数群移入  (p123)

 

 

「明治40年6月の小笠原系イタリアンを移入」の信憑性について

 

 「明治40年6月、小笠原系イタリアンを移入」については筆者は少々疑念を抱いています。創業が40年2月、2月から日本蜜蜂の買い付けや飼育に追われ、西洋蜜蜂に転向を決意し買い付けの手配したのが6月、6月便で書簡が小笠原島に向かったとしても、返事も発送も次の便、すなわち9月の船ということになります。9月の便で書簡が向かった場合、返事も発送も12月の便となってしまいます。6月に決断し、即6月に手に入ると言いうものではないのです。「明治40年6月、小笠原系イタリアンを移入」については時間的な点で整合性が取れません。

 

 小笠原島からイタリアン種を購入したとの渡邊寛自身の記述は、著書の中には見当たりません。力富千蔵著「ある養蜂家の生涯」にのみ、記述されていることがらです。「ある養蜂家の生涯」は老いた渡邊寛に力富千蔵が聴き取り取材して忠実にまとめた伝記ですが、渡邊寛に勘違いや記憶違いがあった可能性は否定できません。

 

 明治40年には、イタリアン種は小笠原島でなくても購入できました。明治25年以降相当数のイタリアン種の種蜂が小笠原島から本土に移入されていて、繁殖増群され、先発の相当数の養蜂家がイタリアン種の販売を拡大していました。その最大手が青柳浩次郎でした。青柳はイタリアン種だけでなくサイプリアン種も販売していました。

 

ーー>明治40年当時の西洋蜜蜂種蜂販売広告写真準備中

ーー>渡邊寛は後発、準備中

 

 渡邊寛は小笠原島からイタリアン種を購入したのではなく、本土各地で販売されていた西洋蜜蜂を購入したのだと筆者は考えていますが、それを裏付ける史料があります。 昭和7年出版の渡邊寛の「最新実利養蜂の経営」の改訂増補第4版(昭和12年2月)で、創業した明治40年夏の本人の写真がはじめて掲載されました。そして次のようにコメントが付いています。

 

 昭和12年を距る30年の昔、24歳の弱冠を以て養蜂専業の旗揚げを為したる著者が其の年(明治40年)夏、サイプリアン種蜂群点検中の実況

 

 著者54歳の時の記述ですから、ここには勘違いや記憶違いはないと思われます。6月に思い立ち西洋蜜蜂購入手配、8月に西洋蜜蜂の種蜂が到着。そして、初めての西洋蜜蜂と記念写真を撮りました。写真には西洋蜜蜂の巣箱が2つ写っています。それは、当時小笠原島で使用されていた形式の巣箱ではなく、神奈川県の箱根養蜂場の青柳式巣箱です。

 

 時間的不整合性と本人が開示した写真によって、明治40年6月に購入したのは小笠原島からではなく神奈川県箱根町からで、8月に到着、購入したのはイタリアン種2群ではなくサイプリアン種2群だったことが判明しました。

 

 

「明治43年の小笠原イタリアンを十数群移入」についての疑念

 

 力富千蔵著の「ある養蜂家の生涯」の中の下掲の記述は昭和36年の何年か前に、年老いた渡邊寛に聞き取り取材をし、それを忠実に記録したものです。

 

 岩田太平治という男があって、牛と蜂を飼っていたが、翁は彼に小笠原まで出向いてもらって、イタリアン12、3箱を入手することができた。   (p29)

 

 岩田太平治の小笠原島訪問についての最初の活字は明治43年4月号の下記の記事です。

 

 当縣畜牛兼養蜂家岩田太平治氏は昨年畜牛事業の用件にて小笠原島へ渡られしことありしが其際同島に於ける養蜂に嘱目する處あり、再来計画を進め、去月再び同島に赴き将来の方針を定め、帰途多数の種蜂(イタリアン種)を携え持ち来られたと云う。詳細は本誌次号に掲げらるる同氏の記事に微せらるべし。    (p23)

 

 これは「養蜂之友」編集兼発行者の名和梅吉又は渡邊寛による記述です。「養蜂之友明治43年4月号」の巻末にある「次号予告:本誌5月号の要目」にも「小笠原島の養蜂状況:岩田太平治」と予告されていましたが、実際には6月号と7月号に前編、後編分けて掲載となりました。

 

 「養蜂之友明治43年6月号」に掲載された、岩田太平治の小笠原島訪問についての記述の書き出しは以下のようです。

 

 余は乳牛を飼養し搾乳を販売するを以て営業とし、傍ら数年来養蜂に従事しつつあるものなるが、予て暖地方面に於ける畜産業に対して多大の希望を有して居たので八丈島又は小笠原島に渡り親しく其土地の形況を踏査したうえで聊か企画を実行して見たいとの理想を抱きつつあったが然るに余が副業としての養蜂に就きて段々経験を重ね且其方面の消息を知る間に彼の小笠原島に於ける養蜂の状況を聞くを得て殊に同島に飼養されある蜂種は凡て外国種のみであるとの事を聞き及んだので都合に依りては種蜂として少々買入れてもよいものであるとの望みも起り、仍て多年の宿望たる畜産事業上の調査を兼ねて兎にも角にも渡航するに決し、予め地方の消息通にも其概要を尋ねた上遂に昨年(明治42年)3月の便船で彼の地に赴いた・・・

(養蜂の友、明治43年6月号p14)

 

 これは「養蜂之友明治43年4月号」で名和梅吉又は渡邊寛による記述と食い違いがありません。しかし、昭和36年の力富千蔵著の「ある養蜂家の生涯」では渡邊寛が岩田太平治に小笠原島に出向いてもらったことになってしまいました。53年もたっていますので、これも、渡邊寛の勘違いか記憶違いでしょうか。“俺が奴を出向かせたんだ”と首謀を自分にする人は現代でも見受けられます。ここでまず指摘しておきたいことは、岩田太平治は出向かせられたのではなかったということです。

 

岩田太平治のイタリアン種買い付けについてーー>準備中

 

 

 渡邊寛の著書には、渡邊寛が小笠原島からイタリアン種を購入したという自身の記述は見当たらないのですが、力富千蔵著の「ある養蜂家の生涯」でも、そのことについての記述も上記のようにほんの僅かです。その前では明治40年2月に和歌山から日本蜂を購入した件について7頁に渡り詳細に書かれています。小笠原島からイタリアン種を購入したという1頁半の記述の後には、明治41年に長野県と奈良県で日本蜂を買うために苦労した話が3頁に渡り詳細に記述されています。力富千蔵著の「ある養蜂家の生涯」を読んで行くと、小笠原島からイタリアン種を購入した件への言及と頁配分の少なさに違和感をおぼえます。ここには日本蜂を買った時のようなストーリーや感動がなかったというのでしょうか。それとも、詳細に語れない何か理由があったのでしょうか。追及されたくない何か理由があったのでしょうか。

 

 先に検証しましたように、「明治40年6月、小笠原系イタリアンを移入」に関しては購入したのは小笠原島からではなく神奈川県箱根町からで8月に到着、購入したのはイタリアン種2群ではなくサイプリアン種2群だったことが確実です。「明治43年の小笠原イタリアンを十数群移入」についても検証の結果は否となります。

 

渡邊寛の種蜂販売に見る外国種ーー>準備中

 

 

 

「畜産発達史」の正誤検証

 

 次の章に行く前に済ませておきたいことが、もうひとつあります。それは、「畜産発達史」における記述の正誤検証です。

 

  頁

      誤

      正

1316

明治新政府の養蜂施設

明治新政府の養蜂施策

1318

明治10年12月28日

明治10年 (日付なし)

1320

磯村(小笠原島要覧の著者磯村貞吉のこと)によれば

東京府小笠原庁編小笠原誌算によれば

1320

小笠原島誌

小笠原島志

1320

長谷川常二郎

長谷川常三郎

1333

4.蠟市翁小伝(1957)

4.蜜市翁小伝(1959)

1333

6.注5に同じ

6.注4に同じ

1333

12.注9に同じ

12.注10に同じ

1333

15.注8に同じ

15.注9に同じ

 

 単なる誤植もありますが、校正が十分でなかったということだと思います。

 

 ”明治10年12月28日”というのは、内務省が西洋蜜蜂を輸入したくだりです。「大日本農史今世」は明治の各年の内務省内の記録文書を編纂したものですが、その編纂の方法は年毎にまとめ、年を月ごとに、月の内は日付順に編纂しています。月はわかるが日付の不明な文書はその月の最終にまとめ“此の月”と頭につけています。年はわかるが月がわからない文書は12月の最終日付の文書の後に編纂し“此の年”と頭につけています。畜産発達史」が引用しているのは下記の記録文です。

 

この年、勧農局においてアメリカよりイタリア国種のミツバチを購求し、これを新宿試験場に飼養し内外蜜蜂の得失を試験した。   (大日本農史今世、p249~250)

 

 明治10年の記録は最終日付は12月28日で、その後に“此の月“のついた文書が2つあり、その後に”此の年“のついた上記の記録が編纂されているのです。「畜産発達史」の、この間違いは史料をきちっと読んでいないからだといえます。

 

 さらに深刻なのは史料の取り違えです。小笠原島要覧、小笠原島誌算、小笠原島志、小笠原島総覧、小笠原島要覧と似たような書がいくつもあるのは事実ですが、引用が混線してしまってめちゃくちゃで、根拠が成立しなくなっています。歴史は史料に負っているわけですから、細心の注意が必要です。以上の9か所は本稿に関係のある10数ページで気づいた箇所ですので、全体ではどのくらい正誤確認が必要なのかわかりません。