武田昌次は幕臣塚原但馬守昌義


      

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内務省で重要な役割を担った武田昌次の名が明治政府文書に最初に出てくるのは、明治6年のウイーン万国博派遣団名簿です。角山幸洋氏は「ウィーン万国博の研究」に 二級事務官、英国列品、武田昌次、東京府士族、当局、八等出仕(38)と引用しています。 また、友田清彦氏は「内務省期における農政実務官僚のネットワク形成」(論文農村研究第104号、2007)で 二級事務官、武田昌次、東京、38歳 英国博覧会参加 と引用しています。

 

それ以前の武田昌次の経歴については長い間不明でした。東京農業大学教授友田清彦氏も次のように記述しています。

 

 田中芳男の経歴がよく知られているのと対照的に、勧業寮では重要な役割を果たしたと思われるにもかかわらず、経歴がわからないのが武田昌次である。  (論文農村研究第104号(2007):内務省期における農政実務官僚のネットワク形成p22)

 

また、近代日中関係史人名辞典の武田昌次の項で、田中弘喜氏は以下のように記述しています。

 

出没年不詳、出身地不詳。生涯にわたる経歴はほとんど不明。 (2010、p357)

 

 

ところが、2014年に国立歴史民俗博物館教授の樋口雄彦氏による衝撃的な研究発表がありました。

 

別冊REAL敗者たちの幕末維新,2014、洋泉社、戊辰の戦乱が生んだ亡命者たち、p58-59)

 

 樋口雄彦氏はこのように記述しています。

 

 鳥羽・伏見の戦犯として新政府から処罰の対象とされた旧幕府側責任者の中に塚原但馬守昌義という元旗本がいた。外国奉行支配調役として日米修好通商条約推進のための遣米使節に加わり、目付・大目付・外国部上・勘定奉行などを歴任した経験を持ち、若年寄並・外国惣奉行に在職中、旧幕府軍の副将をつとめ戦争を指導したのだった。(中略)「塚原但馬守、後ち武田昌次と成た人」と記した文献がある・・・・・

 

 樋口雄彦氏はその後さらに詳しい調査をし、論文「塚原昌義と武田昌次ー物産学を学びアメリカへ亡命した旗本」(洋学22,2014)の中で。武田昌次が徳川家臣(幕臣)塚原但馬守昌義だった事を確定しました。その根拠は以下の3点です。

 

○ 塚原但馬守の改名に関して、元旗本村山鎮の村摂記に「若年寄格で塚原但馬守、後ち武田昌 次と成た人」と記されている。

 

○「塚原重五郎、後登用外国奉行慶喜公之代遂為若年寄、維新後改姓武田昌治、今居小笠原島と の旧幕臣・医師林洞海の記述がある。

 

○ 本人の書簡発見。柏木忠俊氏あての但馬守名のものと武田昌次名のものが各2通ずつ残っていて筆跡は同じ。

 

 樋口雄彦氏の著書「幕臣たちは明治維新をどう生きたのか」の中でも塚原昌義と武田昌次について記述されています。(洋泉社、2016、p59~61)

 

  (本件に関する樋口雄彦氏の論文、著書)

 

●戊辰の戦乱が生んだ亡命者たち(別冊REAL敗者たちの幕末維新、洋泉社、2014)

●塚原昌義と武田昌次―物産学を学びアメリカへ亡命した旗本(洋学22,2014)

●幕臣たちは明治維新をどう生きたのか(洋泉社、2016)

 

 樋口雄彦氏の研究や論文一覧はこちら

http://www.rekihaku.ac.jp/education_research/research/researcher/higuchi_takehiko/

 

 

 国立歴史民俗博物館教授の樋口雄彦氏が武田昌次は実は旧幕臣の塚原但馬守昌義であると確定された根拠となった文献や資料は以下の3つでした。

 

○ 元旗本村山鎮の「村摂記」

○ 旧幕臣・医師林洞海の記述

○ 柏木忠俊氏あての本人の書簡4通

 

 

元旗本村山鎮の「村摂記」について

 

 筆者も樋口雄彦氏が発見された文献と史料にあたってみました。根拠の一つ村山鎮の「村摂記」がこちらです。

  

(「村摂記」が収録されている三田村園鳶魚編「未刊随筆百種第五」、1976、中央公論社)

 

     (同上、未刊随筆百種第五p398)

 

確かに、元旗本村山鎮村摂記に 若年寄格で塚原但馬守、後ち武田昌 次と成た人” と記しています。

 

 

旧幕臣・医師林洞海の記述について

 

 筆者も旧幕臣・医師林洞海の記述の原本を直接見たくて、沼津市明治史料館を訪ねました。特別閲覧とのことで写真撮影ができ、その使用についても確認ができました。

    

茶農漫録巻13(林洞海、明治16年3月7日~同7月29日、沼津市明治史料館所蔵)

沼津市明治史料館のホームページはこちら

 https://www.city.numazu.shizuoka.jp/kurashi/shisetsu/meiji/

 

 茶農漫録は旧幕臣・医師林洞海が読んだ本や記事を丹念に半紙に書き写して残したものです。巻13だけでも76号もの収録があります。その第8号が村山徳淳の米舶紀事の書き写しです。書き写し時に、思い出したか何かで、書き写し本文とは関係なく、欄外にメモを記しました。それは知人たちの名前や近況でした。

 

(茶農漫録巻13第8号、村山徳淳の米舶紀事の書き写し本文と欄外の知人たちについてのメモ、沼津市明治史料館所蔵茶農漫録巻13より)

 

 19人の知人の名や近況をメモした中に塚原昌義についての言及があり、「塚原重五郎 後登用外国奉行慶喜公之代遂為若年寄 維新後改姓武田名昌治 今居小笠原島」と書いてあります。「今居小笠原島」とありますが、このメモの書かれたのは明治16年3月以降で、情報には多少の時差があるように思われます。武田昌次の小笠原入りは明治11年11月5日で島を離れたのは明治15年3月と考えられるからです。メモの最後に「故読此文 旧懐之情胸ニ満ツ 亦是老人ノ常 ナリト云ト雖」とあり、それぞれの道に進んだ知人たちを懐かしんでいます。

 

(欄外メモにある塚原昌義の近況、沼津市明治史料館所蔵茶農漫録巻13より)

 

 樋口雄彦氏は膨大な史料の中から、よくこのような小さなメモを発見されたものだと感嘆しました。茶農漫録は出版物ではなく、旧幕臣・医師林洞海の個人的な記録で、原本しか存在しません。原本が沼津市明治史料館で保存されていず、メモ書きを樋口雄彦氏が発見されなかったなら、塚原昌義の改名武田昌次の立証は遠のいていたかもしれません。樋口雄彦氏はこのメモ全文を初めて活字化しています。   (――>洋学22 )

 

ーー>引用準備中

 

沼津市明治史料館のホームページはこちらhttp://www.city.numazu.shizuoka.jp/kurashi/shisetsu/meiji/

 

 

柏木忠俊氏あての本人の書簡4通について

    取材予定

 

 

 武田昌次の足跡を追っていた者にとって、樋口雄彦氏の研究発表は実に衝撃的なものでした。樋口雄彦氏の解明により、筆者は長年抱き続けていたなぞがいくつも解けました。

 

あ)武田昌次の経歴

 

武田昌次が明治新政府の官僚に登用される前、徳川幕臣塚原但馬守昌義であったのなら、その系図は以下のようになります。

 

塚原但馬守昌義(つかはらたじまのかみまさよし)は通称を藤助、重五郎、次左衛門、三左衛門といいました。塚原家は甲斐の出身で、書院番・小姓組などに属した家禄450石の旗本でした。塚原家は代々「昌」名を名乗っていました。1代目の昌吉、2代目の昌重が武田信玄と勝頼に仕えました。武田家が滅びた後、徳川家康に召し出され、その家臣となりました。

 

昌義の関係は以下のようです。

 

父 :昌常(忠次郎、元治元年4月25日没)

兄   昌綏(寛十郎、安兵衛、明治7年7月3日没))

兄 :英之助

兄 :昌良

本人:昌義(重五郎)

弟 :昌明

 

塚原家の「昌」名は武田信玄の三代前の信昌の「昌」を頂戴したものと思われます。武田家の系図は以下のようになります。

 

信重信守信昌━┳信縄━━━┳信虎━━━╋晴信(信玄)━━━┳義信

 

塚原家と塚原但馬守昌義に関する資料には以下のようなものがあります。

 

 

●明治維新人名辞典(1981、日本史学会編、p625~626)

●徳川幕臣人名辞典(2010、竹内誠他、p423)

●江戸幕臣人名辞典3(1990、小西四郎監修、p73)

●長龍寺史(1993、宗教法人長龍寺、p213~215)

 

 

これらの文献からわかる塚原但馬守昌義の足跡は以下のようです。

 

○嘉永3年4月4日(1850)頼母弟塚原重五郎申込承知いたし置

○嘉永3年5月26日(1850)頼母弟塚原重五郎御二階通之願

○嘉永4年2月5日(1851)塚原十五郎申込

○安政3年10月(1856)昌平坂学問所教授方出没

○安政3年10月(1856)外国貿易取調掛

○安政6年 6月(1859)外国奉行支配調役 

○万延元年(1860)遣米使節参加

○慶応2年10月 (1866)外国奉行兼勘定奉行

○慶応3年6月(1867)外国奉行並

○慶応3年10月(1867)外国総奉行

○慶応3年12月(1867)若年寄並兼外国総奉行

○慶応4年(1868 戦犯、亡命 

 

 

い)武田昌次の年令

 

 武田昌次の年令については、「ウィーン万国博の研究」(角山幸洋、関西大学経済、政治研究所、平成11年(1999) 及び、友田清彦氏の「内務省期における農政実務官僚のネットワク形成」(論文農村研究第104号、2007)明治6年(1873)のウィーン万国博覧会派遣団メンバーリストの中に 武田昌次東京38才との記述があります。

 

 塚原昌義について、アメリカの新聞ニューヨーク・ヘラルド紙の1860年6月19日の記事に次ぎのように記されています。

 

 The last we shall notice of the officers is Shakara Jhugoro , a Japanese Princea square headed , intelligent and lively looking young fellow of five-and -twenty . This gentleman had perhaps the most expressive countenance in the entire deputation yesterday, and watched with great interest the proceedings .He appeared also to be much interested in the paintings, and has seemingly an artistic as well as literary turn of mind . He has a bright, sharp eye, is rather handsome for a Japanese, and, according to Yankee phrenology, has a well balanced cranium, the reasoning faculies being especially well developed.

  (万延元年遣米使節史料集成第6巻、風間書房、1961、p278から転載)

 

(翻訳文)

 最後に外国奉行支配調役塚原重五郎は、角張った頭をしており、頭がよさそうで、元気はつらつとした25歳の青年である。この紳士は使節団の代表の中でも最も表情に富んでおり、何でも非常に興味をもって見ていた。絵画にとても興味があるように見え、文芸を愛する性向があるようだ。目は澄んでおり、鋭く、日本人にしては美しい。骨相学からいえば、頭蓋はよく均衡がとれていて、推理力がとりわけ発達しているのが判る。デュポン大佐の話だと、塚原は日本でも最も嘱望されている人物の一人であるらしく、こんど帰国すれば政府(幕府)の要職につくことは間違いない、という。使節団の重要な討議ではたびたび意見を求められ、その発言は重さを持っている。英語の習得にも熱心であり、上達も目覚ましい。前記5名の日本人はいずれも大君の家臣であるが、顔色や体つきがほんの少し違うだけであり、見分けるとなると容易ではない。

(万延元年のアメリカ報告、宮永孝,新潮社、p171~172から転載)

 

(万延元年(1860)遣米使節の主要メンバー、前列向かって左端が塚原昌義)

 

ウィーン万国博覧会派遣時(明治6年、1873年)に38才だとすると13年前の日米修好通商条約推進のための遣米時(万延元年、1860年)は25才で、整合性がとれます。これにより塚原昌義の節目となる年齢を逆算しますと以下のようになります。

 

○嘉永3年4月4日(1850)頼母弟塚原重五郎申込承知いたし置、15才

○嘉永3年5月26日(1850)頼母弟塚原重五郎御二階通之願、15才

○嘉永4年2月5日(1851)塚原十五郎申込、16才

○安政3年10月(1856)昌平坂学問所教授方出没、21才

○安政3年10月(1856)外国貿易取調掛、21才

○安政6年 6月(1859)外国奉行支配調役、24才  

○万延元年(1860)遣米使節参加時、25才

○慶応2年10月(1866)外国奉行兼勘定奉行、31才

○慶応3年6月(1867)外国奉行並、32才

○慶応3年10月(1867)外国総奉行、32才

○慶応3年12月(1867)若年寄並兼外国総奉行、32才

○慶応4年(1868)戦犯、亡命、33才

 

 

 塚原昌義の年令に関して、これらとは異なる数字の文献があります。

 

ーー>文献準備中

 

小栗忠順従者の記録:幕末遺米使節(村上秦賢編、2001、東善寺)では万延元年(1860)遣米使節参加時には 塚原昌義は36才であったとのこと、そうだとすると、内務省資料やアメリカの新聞記事は間違いで、塚原昌義の年令は全て11才プラスしないといけなくなります。こうすると、学問を始めたのが27才となるなど不自然な感になります。

 

 

う)武田昌次が語学堪能なわけ

 

 樋口雄彦氏によると

 

 塚原昌義は昌平坂学問吟味乙科に及第した秀才だった。塚原昌義と武田昌次―物産学を学びアメリカへ亡命した旗本、洋学22、p80)

 

 昌平坂学問所には15才で入門、21才で教授に採用されました。大変優秀だったことがうかがえます。昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)は、1790年(寛政年)、神田湯島に設立 された江戸幕府直轄の教学機関・施設です。正式の名称は「学問所」であり「昌平黌」( しょうへいこう)とも称されます。朱子学を正学として幕臣・藩士などの教育にあたりました。学科には小学,四書,五経,歴史,策問等がありました。明治維新後に昌平学校、次いで大学校と改称しましたが、明治4年(1871)閉鎖されました。

 

(昌平坂学問所日記(Ⅲ)斯文会、H.18(2006)

 

昌平坂学問所日記(Ⅲ)の記録に塚原昌義は重五郎又は十五郎の名で嘉永3年から安政3年までの8年間に以下のようにたびたび登場します。

 

ページ

年月日

日記

76

 

嘉永3年4月4日

(1850)、15才

塚原重五郎申込承知いたし置

 

81

嘉永3年5月26日

塚原重五郎御二階通之願

101

嘉永4年2月5日

(1851)、16才

塚原十五郎申込

220

安政3年6月20日

10)  (1856)21才

塚原重五郎新井孝太郎跡頭取、小暮東之輔塚原重五郎跡取締

221

 安政3年6月29日

 塚原重五郎日講助勤被申渡

226

安政3年8月3日

塚原重五郎より指出聞届候旨申達す

227

安政3年8月13日

世話心得佐明キ跡江申上候書付塚原重五郎より差出

233

安政3年9月28日

御二階通稽古塚原重五郎申込

238

安政3年10月31日

塚原重五郎教授方出役被仰付候御礼罷出、致面会候事

240

安政3年11月14日

北楼輪講重五郎

252

安政4年3月20日

(1857)、22才

今日出役重五郎申談、易・書・詩・四書・

小学全部取調長持中江相納

272

安政4年7月14日

北楼素読十五郎勤之

282

安政4年8月4日

北楼素読重五郎

289

安政4年11月14日

北楼素読重五郎

293

安政4年12月14日

北楼素読重五郎

302

安政5年3月4日

北楼素読重五郎

310

安政5年4月24日

北楼会読重五郎

312

安政5年5月9日

北楼素読重五郎

313

安政5年5月14日

北楼素読重五郎

315

安政5年5月24日

北楼素読重五郎

318

安政5年6月19日

北楼素読重五郎

320

安政5年7月9日

御座敷講釈新九郎替席重五郎出席

323

安政5年8月4日

北楼輪講重五郎勤之

328

安政5年9月29日

北楼素読重五郎

 

  上記から以下のようなことがわかります。

 

①15才で入門(入学)

②安政3年6月29日、21才で日講助勤(現代風に言えば助教授)

同年10月31日、教授方出役 (教授に採用)

④塚原重五郎の教授場所(教室)は二階通、北楼、御座敷等であった。

⑤塚原重五郎の教授には稽古、輪講、素読、講釈等があった。

 

稽古とは

 

現代では稽古(けいこ)とは、広く芸道に共通して使われ、主に練習を指す言葉ですが、「稽」は「考える」という意味で、漢語「稽古」の原義は「古(いにしえ)を考える」「昔のことを 調べ、今なすべきことは何かを正しく知る」ということです。 そこから、「古い書物などを読んで 学ぶ」といった意味が派生し、学問する意味で用いられていました。

 

輪読とは

 

 輪読(りんどく)とは。数人が一つの本を順番に読んで 解釈をし、問題点について論じ合ったりすること。一人で読み進める読書とは違い、参加者と共に読み進めることが輪読の特徴です。複数の参加者で読み進めることで、自分とは違った目線での解釈を知ることができます。

 

素読とは

 

 音読が文章の意味を理解して読み上げるのに対し、素読は文章の意味を理解しません。
江戸時代の寺子屋や藩校で行われ、明治時代の文豪や政治家など歴史の偉人達も行っていました。古文・漢文は素読に非常に適しています。独特のリズムが奏でる響きには深い味わいがあります。

 

講釈とは

 

 講釈(こうしゃく)とは 書物の内容や語句の意味などを 説明すること。 物事の道理や心得などを説いて聞かせることです。

 

ーー>昌平坂学問所の講話座敷写真準備中

ーー>昌平坂学問所で使用されていた漢書写真準備中

 

 

⑥安政5年6月に外国奉行支配調役 に抜てきされて忙しくなり学問所教授を辞退したと思われます。

 

 21才で徳川幕府の外国貿易取調掛に登用され、24才で外国奉行支配調役に昇格しました。25才で遣米使節団に外国奉行として渡米。遣米時にその勉学の熱心さはアメリカメデイアの記者の目にもとまりました。

 

 その後も下記のように外国奉行で活躍しました。外国奉行とは安政5年(1858)に日米修好通商条約の調印を機に外交事務を担当するために設置された江戸幕府の職名で、人員は10名程度でした。

 

○慶応2年10月 (1866)外国奉行兼勘定奉行、31才

○慶応3年6月(1867)外国奉行並、32才

○慶応3年10月(1867)外国総奉行、32才

○慶応3年12月(1867)若年寄並兼外国総奉行、32才

 

勉強熱心であり、外国との交渉実務に携わることにより、その語学力は磨かれていったと思われます。さらに慶応4年(1868)戊辰戦争を指揮した責任者として、明治新政府から戦犯とされ、米国人医師ボームに同行して横浜から出帆しアメリカに亡命、サンフランシスコに30カ月間滞在。現地では、ボームの世話で大農家や大学校教頭や機械製造職人らに雇われ、種々の仕事に携わったとのことです。これは語学留学と言っても良いかもしれません。米人のなかで、その英語力はますます磨かれたものと思われます。

 

え)武田昌次が動植物専門家なわけ

 

国立歴史民俗博物館教授の樋口雄彦氏が文久2年8月5日(1862)蕃書調所・開成所の「物産学入学姓名記」に“御徒頭 塚原次左衛門”とあるのを発見されました。次左衛門とは塚原昌義の通称の一つです。塚原昌義27才の時、伊藤圭介の門下に入りました。

 

蕃書調所とは江戸末期、幕府が設けた洋学の研究・教育施設。外交文書の翻訳をも行ないました。文久2年(1862)に名称を洋書調所、さらに翌年には開成所と変更しました。今日の東京大学の前身です。

 

ーー>東京大学100年史準備中

 

伊藤圭介とは幕末~明治期の植物学者。愛知の生まれ。東大教授。シーボルトに師事。日本初の理学博士。リンネの植物分類法を日本に初めて紹介しました。「泰西本草名疏」を著し日本の近代植物学の先駆をなしました。塚原昌義はこの伊藤圭介の門下に入り、植物学を学んだのです。

 

お)武田昌次が田中芳男と懇意なわけ

 

文久2年(1862)に塚原昌義が師事した伊藤圭介に、実は田中芳男も師事していました。田中芳男は安政3年(1856)、17才で尾張名古屋に出て、博物学者の伊藤圭介の門に入り、医術本草学と洋学を学びました。文久2年(1862)、伊藤圭介に従って江戸に上がり、翌年に幕府の蕃書調所に出仕しました。出仕とは勤務することです。田中芳男と武田昌次の強い絆はこの蕃書調所での物産学就学時代に築かれたものと思われます。

 

 

か)明治新政府官僚に登用されたわけ

 

 明治維新後はノーサイドとし、実力本位で人材を登用しました。その結果、多くのかつての徳川家臣たちが明治新政府に登用されました。武田昌次は英語が堪能な植物学者として大久保利通率いる内務省に配属となりました。そこにはかつての同門の田中芳男が登用されていました。田中芳男が武田昌次を推挙したとも考えられます。

 

ーー>登用人材リストについて準備中

 

 

き)武田昌次が旧幕臣と親交あるわけ

 

 成島柳北の「航西日乗」の明治6年4月28日の日記に

 

武田昌次氏をケンシングトンに訪ひ、旧を話す。 とあります。

 

 成島柳北は江戸の生まれ。幕臣として騎兵奉行や外国奉行などを歴任しましたが、維新後は仕官を拒否し平民籍となりました。明治5年(1872)東本願寺法主の大谷光瑩の欧州視察随行員として欧米を巡りました。その旅行記が「航西日乗」です。

 

「航西日乗」が収録されている幕末維新パリ見聞記」

 

 明治6年3月下旬に、武田昌次はウイーン万国博覧会派遣団から途中で別れロンドンに来ていました。英国博覧会のためでした。成島柳北は明治6年4月27日にロンドン入りし、ロンドン滞在中の25日間に武田昌次と10日も会っています。二人で展示会を見に行ったり、飲んだり、話したり、遊んだりで、その親密さから二人は旧知であり、成島が幕臣であったように武田昌次も幕臣だったのではと思わせるものでした。特に、上掲の4月28日の日記の“旧を話す”には維新前の二人の接点や共通点を想像させるものでした。

 

 この度、武田昌次が幕臣塚原但馬守昌義であることが判明し、二人が同じ幕臣であったばかりでなく、共に外国奉行だったことがわかりました。“旧を話す”には時間がいくらあっても足りず、飲み、遊び、旧交を温めたことでしょう。

 

 

く)武田昌次の経歴に空白があったわけ

 

 ーー>準備中

 

鳥羽・伏見の戦いについて

 

 慶応3年10月14日、徳川慶喜は260年余り続いてきた徳川政権を朝廷に返上しました。大政奉還です。徳川慶喜は日本近代化のための新政府で徳川家の勢力を維持しつつ諸国大名を新政府の要職に就かせる考えでした。これに対して、薩摩・長州両藩は討幕して新政府を樹立する考えでした。慶応3年12月8日、御所は薩摩藩兵で固められ、いわゆるクーデターが起こりました。明治天皇臨席のもと小御所会議が開かれ、翌9日には王政復古の大号令が発せられたのです。慶喜は排除され、会津藩の京都守護職、桑名藩の京都所司代も罷免されました。京都では会津藩士と薩摩藩士の小競り合いが起こるなど一触即発の状況でした。

 

 幕府は薩摩藩の挑発に引っかかったのだと歴史的には理解されていますが、慶喜の回想録によりますと幕府も戦争になることを望み、その機会を伺っていたとあります。慶応4年1月2日 (1868年1月26日)夕方、兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を幕府の軍艦2隻が砲撃、事実上戦争が開始されました。1月3日には、京都の南郊外の鳥羽および伏見において、薩摩藩・長州藩によって構成された新政府軍と旧幕府軍は戦闘状態となりました。これが鳥羽・伏見の戦いです。両軍の兵力は、新政府軍が約5,000人、旧幕府軍が約15,000人と言われています。

 

旧幕府軍の方は最新型小銃などを装備していましたが、初日は戦場の混乱および指揮戦略の不備などにより旧幕府軍が苦戦しました。1月6日夜、慶喜は自軍を捨てて大坂城から少数の側近を連れ海路で江戸へ退却してしまいました。慶喜の退却により旧幕府軍は戦争目的を喪失し、旧幕府軍の敗戦となりました。

 

 野口武彦氏は「鳥羽伏見の戦い」(、中央公論社、2010)のプロローグで以下のように記述しています。

 

 第二の天下分け目。鳥羽伏見の戦いは、傾きかけていて徳川家の運命を決した一戦である。(中略)徳川家康は慶長5年(1600)、天下分け目の関ケ原の合戦で石田三成を破り、徳川家の覇権を打ち立てた。同八年には幕府を開き、以後二百六十五年間の治世を保つ。鳥羽伏見の戦いは覇権を失う結果にはなったが、疑いもなく、<第二の天下分け目>といえる記念碑的な戦闘であった。この戦いのことはどんな幕末史にも必ず書かれている。書中でただ言及するだけの本もあり、数頁を費やすこともあり、特に一節を設ける場合もあるなど度合はいろいろだが、たしかに幕末史に不可欠の要件として取り上げられてはいる。しかしどこまでも幕間劇的にであって、その重要度にふさわしい待遇を受けてきたとは思えない。そのせいか現在まで、鳥羽伏見の戦いを単独のテーマにして書かれた本は刊行されていないのである。鳥羽伏見の戦いは、これまでまじめに論評されたことはなかった。近代日本の歴史家たちは、この戦いを不当に軽視してきたようである。   (p3~5)

 

 野口武彦氏の「鳥羽伏見の戦い」は現時点では鳥羽伏見の戦いを単独に扱った唯一の書です。著者は史料を精査し、通説に反論し歴史の真実を明らかにしています。筆者が特に注目したのは第二章伝習歩兵隊とシャスポー銃(p51~82)です。伝習歩兵隊については 同著者による「幕府歩兵隊」(中央公論社、2002)があります。結論から言いますと、鳥羽伏見の戦いの主戦力となったのはかき集められ訓練を受けた元農民や江戸のならず者たちだったということと、使用されたのはフランス製のシャンポー銃だったことです。

 

 鳥羽・伏見の戦いを指揮したのは老中格大河内(松平)正質で、副将が若年寄り並塚原昌義でした。幕府歩兵隊・会津藩・桑名藩を主力とした軍勢でしたから総督が大河内(松平)正質であったことは、うなずけることですが、塚原昌義が副総督というのは、どのような理由によるものでしょうか?

 

 塚原昌義は長く外国奉行関連を歴任していました。語学堪能だったことが要因だったと考えられますが、文久3年3月に一時的に「大砲組之頭」に就任しています。外国から購入した鉄砲類の取り扱いや戦術についての外国語の説明や資料を精査できる語学能力が求められたものと思われます。

 

 鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府軍が最新型小銃などを装備していたことから、外国語の取り扱い説明書や戦術書を読むことの出来る若年寄り並の塚原昌義が副総督に呼ばれたのではないかと筆者は考えています。

 

 

塚原昌義の出奔(しゅっぽん)について

 

 安政3年10月(1856)に21才で外国貿易取調掛になって以来、長く外交関係の業務に従事しましたが、慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦いを指揮した責任者として、明治新政府から戦犯とされました。33才でした。

ーー>出奔(しゅっぽん)の詳細 準備中

 

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 静岡藩願塚原但馬 部分(国立文書館所蔵太政類典1編204巻64より)

 

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 奉申上候書付 私儀 部分(国立文書館所蔵太政類典1編204巻64より)

 

 

 以下は、静岡大学の橋本誠一教授による太政類典1編204巻64の活字化です。

 

明治四年五月(日欠) 静岡藩塚原但馬犯罪自訴ニ由リ寛典ニ処セラレンコトヲ乞フ(弁官宛静岡藩願)(『太政類典』1204巻【64】)

 

    静岡藩願 弁官宛

                   塚原但馬

右者去ル辰年中御沙汰之趣ヲ以謹慎申付置其後大総督府ヘ相伺候処重罪タルニ依テ可被処厳科之処格別之寛典ヲ以死一等ヲ可被宥旨被仰出候ニ付其段可申渡処其節出奔仕候間御届申上置追跡捜索罷在候処今般先非悔悟深恐入候旨自訴仕候ニ付不取敢当藩邸内ニテ謹慎為仕置申候先般脱走降伏之者共寛典之御所置被仰出候儀ニモ御座候間可相成儀御座候ハヽ但馬儀格別之以御仁恤寛大之御沙汰御座候様仕度此段奉願候以上 四年五月三日

(中略)

 

   刑部省上申 弁官宛

 

静岡藩ヨリ伺出候塚原但馬処置振之儀ニ付同人逃走中所業手続委細取糺差出候趣御達ニ相成度仍テ同藩ヨリ取調差出候書類四通相添此段申入候也 四年六月廿八日

 

   静岡藩上申 弁官宛

 

塚原但馬洋行中始末書之儀に付御口書之趣当人へ相達候処別紙書面差出候に付此段申上候以上 四年七月三日

 

(別紙)

    奉申上候書付

                      私儀

去辰年三月中逼塞被仰付謹慎罷在候処厳譴ニモ可被処哉之趣風ト承込恐懼之アマリ不弁前後家出仕候処差向可罷越見当モ無之横浜表ニハ存候者モ有之候間彼地ヘ立越候兼テ懇意ノ亜墨利加人商人ユージンヘンイニ不斗面会致シ同人方ニ暫時罷在同人懇意之者医師ボーム帰国致候間一先彼地ヘ参候方可然哉之旨被相勧候間其意ニ任セ同年四月上旬(六日頃ト相覚申候)横浜出帆合衆国サンフランシスコ港ヘ著致シ右ボーム世話ヲ以同港内農業家ヘンリーステンセル大学校教頭ウイービードル鑽鑛器械製造方ウパーマ方等ニ逗留罷在遂ニ三十ヶ月之余ニ相成彼地著港以来モ御咎中出奔仕候段奉恐入何卒帰国之上御仁憐之御沙汰奉願度且暮故国慕敷旧冬横浜表ヘ帰著仕候処亜墨利加ミニストル儀者兼テ懇意ニ付申勧ニ任セ彼方ニ心ナラスモ消光罷在候得共出奔仕重罪之上尚潜没罷在心得違之段重々奉恐入候儀ト悔悟服罪仕此段藩庁ヘ自訴仕候尤外国ニ滞在中御国禁ニ関係候義ハ勿論御国辱ニ相成候所業仕候義毛頭無御座候右之通リ始末柄申上候次第聊相違無御坐候此段以書付奉申上候以上

  未五月          塚 原 昌 義 判

 静岡御藩

 御役人衆中様

 

(後略)

 

 

米国人医師ボームに同行して横浜から出帆しアメリカに亡命、サンフランシスコに30カ月間滞在しました。現地では、ボームの世話で大農家や大学校教頭や機械製造職人らに雇われ、種々の仕事に携わりました

 

明治3年(1870)12月に横浜港に帰着、翌年には旧主である徳川家・静岡藩に自首。藩では明治政府に対して塚原の宥免を願い出て、明治5年2月12日に免罪となりました。35才でした。

 

改姓について

 

 近代日中関係史人名辞典では武田昌次に「たけだまさつぐ」とルビをふっています。「昌次」の読みは訓・訓読みなら「まさつぐ」、音・音読みなら「しょうじ」、訓・音読みなら「まさじ」、音・訓読みなら「しょうつぐ」ですが、旧幕臣・医師林洞海が知人の消息についての記述したものの中に「維新後改姓武田名昌治」とあることから、訓・音読みの「まさじ」と呼ばれていたこと確定できると思います。樋口雄彦氏も武田昌次の英語表記を「Takeda Masaji」としています。

 

 福永京助著海将荒井郁之助のp173に幕臣の仲の良い仲間が巫女を招いてナポレオン等を呼ばせてみた話と別の日に仲間が集まって初めてパンを食し葡萄酒を呑んだ話がのっています。 その中に塚原重五郎と田邊太一がいます。塚原重五郎が武田昌次となり内務省で活躍しましたが、同じく内務省に田邊太一もいました。伊藤圭介の門で一緒だった田中芳男は内務省では上司でした。武田昌次は改名前とほとんど同じ面々と仕事をしていたことになります。ですから武田昌次が塚原昌義だったことは、当時は周知のことでした。現代の私たちだけが、武田昌次が塚原昌義であったことを知らずにいたのです。

 

(海将荒井郁之助、福永京助著、)

 

 

け)武田昌次の長男重吉の名と年齢について

 

 武田昌次の長男重吉の名について、筆者は史料精査中にふと思った事があります。この名の由来は何なのかと。武田昌次の長男が重吉、何のつながりなのかと。この疑問は 樋口雄彦氏のお蔭で解けました。武田昌次すなわち塚原昌義は通称「重五郎」でした。自分の名の一字を取り長男の名を「重吉」としたと思われます。「重」つながりがあったのです。

 
 「レイモンド服部氏は「77人の侍アメリカへ行く」で塚原重五郎昌義に「じゅうごろう」とルビをふっています。また、アメリカの新聞ニューヨーク・ヘラルド紙の1860年6月19日の記事では「Shakara Jhugoro」と英語表記をしています。このことから長男「重吉」も「しげよし」ではなく「じゅうきち」だったと確定できると思います。

 

樋口雄彦氏によりますと、塚原家の菩提寺の過去帳には塚原重五郎奥、安政5年(1858)8月15日没とあるとのことです。当時、昌義は24歳、重吉がこの先妻の子であるとするなら0才以上ということになります。万延元年(1860)遣米使節参加ですから、先妻はその約1年前に没。長男重吉は遣米時、1才以上ということになります。武田昌次が小笠原入りしたのは43歳、長男重吉は19歳以上ということになります。

 

  なお、樋口雄彦氏によりますと、塚原家の菩提寺の過去帳には「武田重吉弟」と記された明治6年4月9日没の武田昌次の息子があるとのことです。

 

 明治12年12月5日に小笠原島に渡島した武田昌次の家族は妻ヨネ、 長男重吉、 二男要吉、 長女きふ でしたから 明治6年4月9日没の息子は三男だったことになります。妻ヨネは安政5年(1858)8月15日以降に嫁いだ後妻で、二男要吉、 長女きふ、三男某が先妻の子か、後妻ヨネの子であったかは現時点では確定できません。また、長女きふが 長男重吉の姉であったか妹であったかも確定できません。ただ、長女きふは明治12年12月以降に小笠原島で長谷川常三郎に嫁いでいることから、渡島当時16歳前後ではないかと思われます。そうすると、重吉の妹ということになります。この点も現時点では確定できません。

 

 

 

さ)武田昌次の持病について

 

 武田昌次には持病があったようです。明治6年からの内務省の執務に影響が出るような病状にならなかったようですが、晩年になって、やはり悪化したようです。小笠原島歴史の 辻友衛氏は宿病の悪化を退職の理由としています。また、鈴木高弘氏は、武田昌次の宿病と長男重吉の対応を次のように記述しています。

 

「実父昌次儀、客年11月中依願本官を免せらる。直に帰郷可仕之処、宿病の為め気之候迄滞島出致候」(東京府出張所日誌)とあり、重吉共々寄留延を許可されている。  (開拓期の小笠原、鈴木高弘、小笠原島要録第二編、小笠原諸島史研究会、2005、p13)

 

 樋口雄彦氏によると、明治4年7月9日付けで 「但馬儀、此程持病気差発、其上中暑にて腹サ等も有之、何分手当行届兼難渋仕候。」 との理由で療養させたいとの願いが静岡旛から政府にだされているとのこと。これにより、武田昌次の持病は脚気だったと確定できます。武田昌次は長い間、持病の脚気を抱えていたようです。 脚気とは、ビタミンB1の欠乏により起こる病気。倦怠感・手足のしびれ・むくみなどが出、末梢神経の麻痺や心臓衰弱を発症する。米を主食とする日本でかつては国民病といわれるほど多くの人が発症しました。

 

 

こ)吉田市次郎の渡米との関係について 

 

 武田昌次が明治8年に和歌山から内務省勧業寮新宿試験場にスカウトしてきた貞市次郎は当時21歳でした。武田昌次が40歳でしたから市次郎は息子のような存在でした。松本保千代編 「草莽の農聖蜜市翁小傳」に次のようにあります。

 

 武田氏は政府の技術指導官で、市次郎上京のことも同氏の斡旋と推薦によるものであろうし、滞京中もよく面倒を見ておられたようである。

 

 筆者が注目しているのは、和歌山の青年市次郎が、海外経験を持ち語学堪能な内務省技官武田昌次から受けた影響です。松本保千代編 「草莽の農聖蜜市翁小傳」に次のような一文があります。

 

 この方面の技術官であった技師武田昌次などの新しく科学的な指導や示唆を受けて帰郷ごの改良し

 

 外国の養蜂書やカタログを見る機会もあったでしょうし、外国の養蜂技術を教わることもあったでしょうが、明治初期のことでしたから外国そのものに大きな関心を持ったと考えられます。

武田昌次も、25歳の時遣米使節の主要メンバーでしたし、33歳の時には米国逃亡していましたし、38歳の時には英国に約10ヶ月間滞在していましたから、外国の様子を生き生きと語ることが出来、市次郎は大きな興味を抱いたのではないかと思います。

 

 市次郎は明治16年に29歳で結婚し吉田姓となり、明治31年、44歳の時渡米しました。随分思い切ったことをしたものだと思います。勧業寮での武田昌次との語らいから生まれた夢や志が、市次郎に大決断をさせたのではないかと筆者は考えています。

 

 渡米の相談を武田昌次にしたかもしれません。武田昌次は明治15年以降の足取りはつかめていませんが、市次郎との書簡のやり取りは続いていたかもしれません。市次郎が渡米した明治31年には武田昌次は63歳になっていたことになります。市次郎は渡米3年後の明治34年7月22日アメリカの地で亡くなりました。47歳でした。

 

 

し)武田昌次の晩年について  準備中

 

ーー>サンフランシスコで死亡について  準備中

ーー>塚原辰二氏の件  準備中

 

 

 武田昌次が塚原昌義だったことが判明したことによって、武田昌次の維新前の経歴が明らかとなり、武田昌次への理解が大幅にすすみました。