武田昌次の足跡


 武田昌次は明治5年に明治新政府の官僚となり、明治6年のウイー万国博覧会派遣団の一員として田中芳男とともに渡欧。明治7年に明治政府の組織に主要人材が適所配置され、田中芳男とともに武田昌次も内務省勧業寮すなわち“産業振興局”に配属されました。

 

 植物学者であり、日本で亜熱帯植物の植育をめざしていた田中芳男は明治10年に内務省に博物局が創設され初代局長に就任しました。武田昌次も博物局に転出となり、田中芳男直属の一等属書記官となりました。明治11年には内務省勧農局小笠原出張所長として小笠原島に赴任しました。

 

 東京農業大学教授友田清彦氏は次のように記述しています。

 

  田中芳男の経歴がよく知られているのと対照的に、勧業寮では重要な役割を果たしたと思われるにもかかわらず、経歴がわからないのが武田昌次である。  (論文農村研究第104号(2007):内務省期における農政実務官僚のネットワク形成p22)

 

また、近代日中関係史人名辞典の武田昌次の項で、田中弘喜氏は以下のように記述しています。

 

出没年不詳、出身地不詳。生涯にわたる経歴はほとんど不明。 (2010、p357)

 

平成25年(2013)時点で存在する、武田昌次の名前や武田昌次についての記述のある史料や文献で筆者が知るのは以下です。(出版年順)

 

平成26年(2014)以降の文献

 

〇消える地名花武田牧場(延島冬生、首都大学小笠原研究年報第40号、2017)

 

 

以上の資料や文献から知りうる武田昌次の足跡は以下のようです。

 

○明治5年、明治新政府の官僚となる。

○明治5年10月28日、田中芳男らとともにウイーン万国博覧会事務官を命じられる

○明治6年1月22日、武田昌次ウイーン万国博覧会2級事務官を命じられる。東京出身38才。

○明治6年1月30日、ウイーン万国博覧会のため横浜を出航。

○明治6年3月23日、武田昌次は途中トリエステで別れ英国に出発(英国博覧会のため、随行2名。)

 

ーー>ウイーン万国博覧会について準備中

 

 ウイーン万国博覧会の主要メンバーであった武田昌次の博覧会関係の動向を知る史料として次ぎの3つがあります。

 

澳行日記(近藤真琴、明治7年、1876)

澳国博覧会参同記要(田中芳男 平山成信編、明治30年、1897)

航西日乗(成島柳北、幕末維新パリ見聞記収録、井田進也 校注、平成21年、2009)

 

ここでは「澳国博覧会参同記要」と「澳行日記」から武田昌次の英国博覧会までの足取りを明確にしたいと思います。

 

ーー>澳国博覧会参同記要画像準備中

 

澳国博覧会参同記要(田中芳男 平山成信編、明治30年、1897、国会図書館所蔵) 

 画像を左クリックすると拡大します。

 

 

 澳行日記(近藤真琴、明治7年 1876、国会図書館所蔵)

右は3月21日の日記のある60~61頁。  画像を左クリックすると拡大します。

 

澳国武田昌次の英国博覧会までの足取り

 

澳国博覧会参同記要抜粋

近藤真琴の澳行日記抜粋

1/28書記事務の両官御雇外国人及随行員諸商工の一行東京を発して横浜港に赴き

1/28午後第二時東京新橋より汽車に駕して横浜に至り其の夜はこゝに宿り

1/29く本船に乗し

 

1/29午後三時過ぐるころ、かねて政府にやとはれし法朗西の郵船フアーズといへるにのりぬ。

1/30天に同港を解?せり

 

1/30朝第八時に日の丸国旗を前檣に揚げ即時に錨をぬきて港を発す。夜に入りて船のゆり動く事おほかたならず夜食を廃し室に入りて臥しぬ。

 

1/31朝六時過ることおきいでゝ望めば船は紀勢の海にあり。

 

2/1きのふの夜より波風いやあらく船のゆるゝこと甚しかり

 

2/2けふも船のゆるることのきのふにかはらず、其かたふき二十度より二十五六度にもいたるときあり

 

2/3けふは船のゆるること少くなりければ、人々ここちよげに食堂にいでて会食せり。

 

2/4午前左舷の方に小島を見る。ここは支那本州と台湾との間の海峡

 

2/5北緯二十三度三十六分、東経百十七度五十六分

 

2/6十一時過るころ船は港につきぬ。香港はもと支那領なりしをいぬるとし英国との戦はててのち英領となりし由。ホテルはたごは一人三食一泊にて価三ドルラルなり

 

2/7朝八時に船に帰り九時二十分に港を発し

 

2/8そらはれて海上おだやかなれども船はいたく動揺しぬ。けふは七十五度までのぼり、なつもなかばのけしきなり。

 

2/9正午に北緯十四度、東経百九度三十一分にあり

 

2/10けふのあつさはみな月のころにもおとらぬほどなれば、けふより夏衣を用ゐたり。

 

2/11温度は華氏の八十度を越えたり。

 

2/12午後四時過るころ馬来半島に属する島を右舷近く見る、木々のみどり色濃く夏の末ともおもふばかりなり。

 

2/13朝より運転をはじめ八時に石炭庫の前なる波戸場に船の左舷を横につけぬ。

 

2/14               (ホテル泊)

 

2/15          (ホテル泊)

 

2/16朝九時に港を発し

 

2/17針路大抵北西の間なり

 

2/18左舷に山を見る、これスマタラ峡の出口の島なりといふ

 

2/19正午北緯六度四分、東経九十一度五十四分の地にあり

 

2/20正午北緯五度五十六分、東経八十七度二十分の地にあり

 

2/21正午北緯五度五十一分、東経八十二度四十七分の地にあり

 

2/22四時半印度の錫蘭《セイロン》島なるポアント・デ・ゴウルといへる港

に錨を投じぬ。

 

2/23四時に錨をあげて港を出でぬ。

 

2/24正午北緯六度、東経七十六度五十九分にあり。

 

2/25廿五日正午北緯七度二十九分、東経七十三度十六分にあり

 

2/26正午北緯八度三十六分、東経六十九度二十二分

 

2/27正午北緯九度五十八分、東経六十五度二十九分

 

2/28正午に北緯十度二十二分、東経六十一度四十八分にあり

 

3/1正午に北緯十一度二十三分、東経五十七度五十三分

 

3/2アラビヤ湾の入口なるソコトラといへる島見ゆ

 

3/3正午北緯十三度五分、東経四十九度三十二分にあり

 

3/4正午にはアーデンの山々手に取るごとく見ゆ。三時に船は港に入りぬ。

 

3/5此日も機関修理終らねば猶此港にかかり、人々船の内にとまりぬ。

 

3/6法朗西の郵船入船しけるが、その船には少将兵学頭殿も打のりきたまへるよし、

 

3/7正午北緯十四度二十七分、東経四十二度三十二分

 

3/8正午北緯十七度四十三分、東経四十度一分船の動揺はげしければ室に入りて臥すも多かり。

 

3/9正午北緯二十度二十三分、東経三十八度十四分にあり

 

3/10正午北緯二十三度五分、東経三十六度五十六分

 

3/11此夕埃及の山々あざやかに見えてスエズの湾に入りぬ。

 

3/12午時過るころスエズの陸に着き錨を投じぬ。

 

3/13四方あかるくなりしころ錨をぬきて堀わりのうちをゆく。

 

3/14わが船は十四日午前八時にここにつきける

 

3/15朝八時に此港を出て地中海を渡る。

 

3/16正午地中海の中央にしてポルトサイドの西北二百二十二里の地なり。

 

3/17正午カンジヤの南にあり

 

3/18正午にはギリシヤの西南にあり

 

3/19午後にイタリヤとトルコの間の海峡をすぎアドリヤ海に達す。

 

3/20もはやトリエストまで二百十一里となれば人々旅の調度を取かたづけなどして悦びあへり。

3/21午前11時「ハーズ」号船墺国「トリエスト」港へ着せり山高書記官以下の一行此に関澤明清と会し諸事を議す

3/21午後にいづれも上陸し、そこなるホテルにおもむきぬ。ここよりウインナへゆくもの、ロンドンへゆくもの袂をわかつところなれば、フアーズの船長をはじめ士官をもホテルに招き、ともにわかれの盃をくめり。事務官武田ぬし、富田ぬし、従五位小笠原忠忱朝臣及び工部省の遊学生多賀、繁沢、清賀の三人皆ここより蒸汽車にてイタリヤを過ぎパリスにいでて英にわたる人々なり。武田ぬし克己慎言の二語を題にして歌よみてよとこひたまひければ、克己のこころを

 

ゆう月に匂ふさくらはあかねども家路に帰る時なたがへぞ

又慎言のこころを

 吹風のはげしからずは真葛原(さねかずらはら)つゆのうらみのいかであるべき

3/22午後第7時佐々木石田藤山の3事務官随行員諸商工を率きて先行す

3/22オーストリヤの海軍造菅場を遊覧せし

3/23午後第6時30分残員皆汽車に乗じ維納府に向い同日午後第10時同府に着せり2級事務官平山威一郎は墺人「ワザロ」と共に「トリエスト」

に留り物品の未だ汽車に積載せざるものを監励し而して同航の2級事務官武田昌次富田淳久随行員坂田春雄は英国博覧会に赴くを以て此れより分れ武田富田の両事務官も亦此日を以て発車し坂田春雄は海路を航行せり

3/23ここよりウインナまで鉄道をゆきし

 

 ここから以下のような事が解かります。

 

1)近藤真琴について

 

近藤真琴の海軍での専門は航海関係で、明治4年には航海教授書を、明治20年には航海術教授書を著しています。澳行日記にある詳細な経度緯度や地名の航行記録はその点からうなずけるものです。

 

近藤真琴は漢学に通じており、後に国語学者として先駆者の一人に挙げられていることから、澳行日記の中でいくつもの和歌を詠んでいることに納得できます。

 

武田昌次が一行から分かれて英国に向かうにあたって「克己」「慎言」で和歌をリクエストしたのも、年上であり和歌の造詣も深い近藤真琴に敬意を持って座右の銘の心を求めたものと理解できます。

 

近藤真琴は武田昌次の「英国倫敦府博覧会記事」には校閲として名を連ねています。

 

 

2)航路について

 

ーー>郵船「ハーズ」について準備中

 

1月30日に横浜を出港し、紀勢沖、支那本州と台湾との間の海峡、香港、馬来半島、スマタラ峡、印度の錫蘭(セイロン)島、アラビヤ湾、スエズの湾、地中海、イタリヤとトルコの間の海峡、アドリヤ海、3月21日に墺国の港トリエストに到着。51日間の長旅でした。現在はトリエストはスロベニア国土でオーストリアは海に面していません。1873年時点でのオーストリアは以下のようです。

 

1870年代のヨーロッパ(世界の歴史まっぷ)

世界の歴史まっぷのサイトはこち

https://www.sekainorekisi.com/downloads/maps/

 

 

2)ウイーン行きと英国行きの分かれ

 

 3月21にトリエステに上陸しホテルでウイーン行きと英国行き分かれの宴が開かれました。22日にウイーン行きメンバーの先行組が出発、23日に残りのウイーン行きメンバー全員が出発しました。英国行きメンバーも23日に出発しました。

 

<ウイーン行きメンバー>

 

3月22日午後第7時汽車にて先行組出発。

佐々木長淳(一級事務官、鑑識担当、敦賀県士族出身、勧工寮七等出仕、43歳)

石田為武(二級事務官、鑑識担当、佐賀県士族出身、当局八等出仕、37歳

藤山種広(二級事務官、鑑識担当、佐賀県士族出身、勧工寮九等出仕、34歳)

随行員諸商工多数

 

3月23日午後第6時30分、残りのウイーン行きメンバー汽車にて全員出発。

 

 <残留メンバー>

汽車でウイーン搬送の残荷があるため、トリエステに次の2人が残留しました。

平山成一郎(三級事務官、訳弁(通訳)担当、静岡県士族出身、当局十一等出仕、21歳)

ワザロ(墺人)

「澳国博覧会参同記要」の「墺国博覧会随行御雇外国人職務分担人員表」によると随行御雇外国人は墺人4名、独逸人2名いました。

 

<英国行きメンバー>

武田昌次(二級事務官、英国列品担当、東京府士族出身、当局八等出仕、38歳)

富田淳人(三級事務官、訳弁(通訳)担当、長崎県平民、工学寮十等出仕、25歳)

阪田春雄(二級事務官、随行、佐賀、23歳)

工部省の遊学生多賀、繁沢、清賀

 

 阪田春雄は、「澳国博覧会参同記要」の「墺国博覧会派遣副総裁書記官事務官弁(通訳)随行員職務分担人員表」に名前や経歴は記載されていません。阪田春雄の職務、経歴については友田清彦氏の「内務省期における農政実務官僚のネットワク形成」から転記しました。藤真琴の澳行日記に記載の従五位小笠原忠忱朝臣は随行員坂田春雄のことか確認中です。工部省の遊学生多賀、繁沢、清賀のは3人ウイーン博覧会メンバーではありませんが、ハーズ乗船が許されし、英国見聞のため英国行きメンバーに同行したものと思われます。

 

 武田昌次らは汽車でイタリアを通過し、フランスから英国に向かいました。阪田春雄は英国博覧会搬入荷の搬送の関係からか海路で英国に向かいました。

 

 

ーー>当時のケンシングトンの画像準備中

 

 

○明治6年4月28日、ロンドンに成島柳北が尋ねてくる。

 

 成島柳北は江戸の生まれ。幕臣として騎兵奉行や外国奉行などを歴任しましたが、維新後は仕官を拒否し平民籍となりました。明治5年(1872)東本願寺法主大谷光瑩欧州視察随行員として欧米を巡りました。その旅行記が「航西日乗」です。文庫本の「幕末維新パリ見聞記」に収録されています。

 

「航西日乗」が収録されている「幕末維新パリ見聞記」

 

 成島柳北の「航西日乗」によると明治6年4月27日、成島柳北はロンドン入りした当日はチャーリングクロスのホテルに泊し、翌28日に日本公使館に行ったあと真っ先に訪ねたのが武田昌次でした。成島柳北がロンドンに来たのが4月27で、米国に向けロンドンを立ったのが5月22日ですから、25日間に10日も会っています。以下は「航西日乗」からの抜粋です。

 

4/28 “武田昌次氏をケンシングトンに訪ひ、旧を話す”

4/29 “武田氏来話す”

5/ 2 “武田氏と機械展示場へ”

5/ 4 “草木博物館へ”

5/ 6 “武田氏来る”

5/10 “貨幣観る、武田氏来話す”

5/12  "武田氏来遊ぶ"

5/14  "武田氏来話す”

5/15  "武田氏酒2瓶持ってくる“

5/16  "武田氏とウインザー城に“

 

○M6、11.28帰国を命じられヴェニスを出航。

 

 明治9年に編纂された公文録第262巻墺国博覧会報告書第23に「英国龍動府博覧会記事」と言うの文書があります。見開きの表題は「英国龍動府博覧記事」となっていますが、本文の表題は「英国倫敦府博覧会記事」となっています。「龍動」も「倫敦」も「ロンドン」の漢字表記で、1873年英国博覧会参加の報告書です。

 

英国竜動府博覧会記事(武田昌次、明治6年、1873、公文録・明治9年・第262巻・墺国博覧会報告書第23に収録、国立公文書館所蔵)  画像を左クリックすると拡大します。

 

 「英国倫敦府博覧会記事」の筆者は武田昌次で、近藤真琴が校閲者として名前を連ねています。武田昌次は本報告書で、まず「英国倫敦府博覧会」が1871より10年間毎年開催される独特の博覧会であり、その特徴は国別陳列ではなく、品目別陳列であることと記述しています。

 

続いて、博覧会の規則書「博覧会綱領」を翻訳して、他の博覧会が商談の場であるのに対して「英国倫敦府博覧会」は技芸学術の教育に資するのが目的である事を明らかにしています。

 

次に、「外国政府より直ちに物品を贈る規則」を抄訳しています。“直ちに”は“直接”の意味で使われています。陳列品の搬入方法や費用の詳細がありますが、「英国倫敦府博覧会」は英国政府が1851年の大博覧会の余剰金で賄うため各国の負担はわずかであること、基本的には各国の駐在員は不要であることなどが翻訳されています。

 

続いて、博覧会に関係する英国政府の官吏数十人の中で特に重要な3名について役職と人となりを記述しています。

 

次に、博覧会場について、敷地面積や立地環境などが記述され、日本政府より送付荷が丁寧に開梱され陳列されたことと、英国政府の特別な取り計らいにより日本コーナーが設けられたことなどが記述されています。

 

英国博覧会規則では開催期間は毎年5月1日から9月30日までであるが明治6年(1873)は4月14日から10月30日までであること、10月21日から30日までは小品については即売され、11月1日から15日まで各国は諸物全てを撤収しなければならないことなどが記述されています。武田昌次が帰国を命じられヴェニスを出港したのが明治6年11月28日だったのは、このような博覧会日程があってのことだったと納得できます。

 

「明治6年英国経常博覧会参同の顛末」について

 

 「澳国博覧会参同記要」の付録第7は武田昌次の同行者富田淳久の記述した「明治6年英国経常博覧会参同の顛末」です。「澳国博覧会参同記要」が編纂された明治30年(1897)時点では姓が変わり西山淳久となっています。“25年前の当時を顧みるに”とあることから記述分は帰国直後の報告書ではなく、回想録といえるものです。この文書から以下のようなことがわかります。

 

1)倫敦到着後直ちに博覧会書記官長に日本出品目録を提出し、陳列場の割り当てを求めた。

2)日本出品物は4月下旬に船にて到着。

3)事務官を派遣したのは日本と露国のみ。

4)今まで英国人が目にした日本製品は外国商社が扱った安価品が主だったが、陳列品の陶器や絹布などの精工さが称賛された。しかし、商談成約となるもの少なかった。それは、人情風俗が異なり、日本出品の多くは英国人の嗜好に適しないから。

5)閉会後の陳列品の処分については、英国人に嗜好に適さないものが多いため難儀した。サウス・ケンシントン博物館長や意匠家ドクトル・ドレッセル氏が斡旋に大変な労をとってくれた。

6)博覧会開催中に日本政府派遣員武田昌次、富田淳人、阪田春雄の3名は女王陛下に謁見の栄を賜った。

 

○明治5年(1872)~明治7年(1874)初等教育用に編算した一覧図解「教草」全31巻の編算に関わる。

 

教草(内務省博物局、明治5年(1872) ~明治7年(1874)、筆者所蔵)

 

 「教草」全31巻の内容は以下のようです。 *印の10葉は武田昌次が述者等として直接関わったものです。 第24には武田昌次は直接関わっていないようですが、「蜜蜂一覧」です。

 

 

 1.稲米一覧

 2.糖製(とうせい)一覽

 3.養蠶(こがい)手びき草

 4.生絲(きいと)製法一覽

 5.樟蟲(げんじきむし)製法一覽

 6.野蠶(やままゆ)養法一覽

 7.葛布(くずふ)一覽

 8.苧麻(からむし)製法一覽   *

 9.草綿(きわた)一覽

10.製絲草木(せいしそうもく)一覽   *

11.素麺(そうめん)一覽

12.葛わらひかたくり製粉一覽

13.藍(あい)一覽

14.青花紙(あおばながみ)一覽

15.製茶(せいちゃ)一覽

16.烟草(たばこ)一覽

17.漆(うるし)製法一覽   *

18.蒔繪廼(まきえの)教草

19.蝋(ろう)製法一覧  *

20.白柿并柿油(つるしがきならびにしぶ)一覽

21.疊表(たたみおもて)一覽

22.香蕈(しいたけ)一覽

23.教草第廿三製糸(せいし)一覧

24.蜜蜂(みつばち)一覽

25.油(あぶら)一覽   *

26.べに一覽   *

27.澱粉(くずこ)一覽 上   

28.澱粉(くずこ)一覽 下   *

29.褐腐(こんにゃく)一覽   *

30.豆腐(とうふ)一覽   *

31.鷹狩(たかがり)一覽

 

 (左クリックで拡大画像になります。)

    8苧麻製法一覽        10製絲草木一覽       17漆製法一覽 

 

   19蝋製法一覽         25油一覽         26べに一覽

 

      27澱粉一覽 上           28澱粉一覽 下        29褐腐一覽

               

     30豆腐一覽         24蜜蜂一覽

 

○明治7年、昭和58年、1983年、8等出仕

 明治8年・9年=7等出仕

 明治10年=博物局1等属書記官

 明治11年~13年=勧農局1等属書記官

 

ーー>官員録画像掲載準備中

 

○明治8年1月頃 蜜市を訪問 

 

 草莽の農聖蜜市翁小傳に以下のような記述があります。

 

 明治8年国の方でも養蜂のことに眼をつけて、この道の練達者として市右衛門に白羽の矢が立てられ召されることがあった。しかし自分はもう老境――明治8年には51才ーーにはいったし、家業を推し進めるのにも家郷を離れることが許さない事情にあったので、市次郎を推せんし上京さすことにした。(中略)

 

 武田昌次氏は熊々市右衛門の業績に期待を持って東京からこの宮原の草深い田舎に来てその実情を見た人で、市次郎に小笠原へ行って、養蜂の新しい天地を開拓するように勧めてこの技術の発展を期待した。武田氏は政府の技術指導官で、市次郎上京のことも同氏の斡旋と推薦によるものであろうし、滞京中もよく面倒を見ておられたようである。

 

(草莽の農聖蜜市翁小傳、1959(昭和34年)より抜粋)

 

 「日本の西洋蜜蜂史の始まり」で記述しましたように、明治6年のウイーン万国博で日本政府は全30巻の「独逸農事図解」の原板を入手しました。その第7が「蜜蜂養法」と題する養蜂図解です。「独逸農事図解」の翻訳出版は明治8年(1875)9月ですが、日本政府の養蜂への取り組みは、その年、すなわち明治8年にすでに始まっていました。 松本保千代編 草莽の農聖蜜市翁小傳、昭和34年(1959)に次のように記述されています。

 

 明治8年国の方でも養蜂のことに眼をつけて、この道の練達者として市右衛門に白羽の矢が立てられ召されることがあった。 

 

 明治8年には、上述のように武田昌次が和歌山に出向き貞市次郎を明治政府の養蜂担当者にスカウトしました。武田昌次は洋書が読め、西洋の養蜂事情や養蜂技術に通じていたと考ええられます。武田昌次はこの時、内務省勧農局書記官でした。

 

 草莽の農聖蜜市翁小伝には、もう一つ注目すべき記述があります。

 

 武田昌次氏は・・・市次郎に小笠原へ行って、養蜂の新しい天地を開拓するようにすすめ・・・

 

 小笠原島の明治8年当時までの、大まかな歴史は以下のようです。

 

 小笠原諸島に最初に日本人が上陸したのは1669(寛文9)年、紀伊蜜柑船漂流によります。1675(延宝3)年、伊豆の代官、伊那忠易らが幕命によって探検、主な島々に父島、母島など命名しました。1830年(天保元)欧米人5人とカナカ系の20人の移民がハワイから父島に入植しました。その後、小笠原島は米英等の捕鯨船の立ち寄り基地化しました。1861(文久元)年12月、外国奉行水野忠徳、目付服部帰一を主班とする全員90余名の小笠原開拓調査隊をのせた軍艦咸臨丸が父島の二見港に入港。在住外国人移住者に小笠原諸島が日本属島であることを明らかにし、伝達しました。1862(文久2)年には幕府幕府は小笠原開発のための移住策として、八丈島民のなかから住希望者を募集、男23人、女15人を小笠原移民として咸臨丸で送りました。しかし、年には全員を引き上げました。1873(明治6)年12月に岩倉具視は内務・大蔵・海軍・外務各省に対し、小笠原諸島開拓につき諮問しました。明治7年5月には、小笠原諸島開拓に関する関係四省公議案まとまりした。

 

 武田昌次は内務省官僚としてだけでなく、植物、動物学者としても小笠原島には並々ならぬ関心を持っていたようです。小笠原島は亜熱帯で本土とは全く違った気候で、植物、動物とも独特でした。一年中、気温が高く、草木に花が咲き乱れていました。しかし、ここには蜜蜂の在来種は存在しませんでした。ここに本土から種蜂と市次郎を送り込めば養蜂の新天地が開拓可能でした。武田昌次は、翌明治9年に始まる小笠原島の殖産政策の一つとして養蜂を思考していたのでした。

 

 市次郎は小笠原島行きは承諾しませんでしたが上京し明治政府の養蜂担当に任命されることには同意し、種蜂4箱と共に上京することとなりました。こうして新宿試験場での蜜蜂試験が始まりまりした。蜜蜂は在来種、すなわち日本蜜蜂でした。

 

 武田昌次はなぜ蜜蜂に熱心だったのでしょうか? 牛馬をはじめ、主要産業となるべき家畜は多種あったはずです。新宿試験場では、もちろんそれらにも取り組みましたが、蜜蜂だけは武田昌次自ら担当しました。

 

筆者は以下のように考えます。

 

1)これは想像ですが、幼少の頃、ふるさとで日本蜜蜂に接する機会があり、ずっと、興味を持ち続けていた。それが、明治6年に「独逸農事図解第7蜜蜂養法」を見て触発され養蜂の産業化を思考するようになった。

 

2)アメリカの農家で牛馬だけでなく、蜜蜂も飼育しているのを直接、間接に見聞きしたことがあった。

 

3)アメリカで近代養蜂が発展して、一大産業となりつつあるとの情報を得ていた。

 

これらは想像の域を出ませんが、あり得ることです。

 

○明治8年5月8日、清国派出の命。

○明治8年5月22日、横浜港より上海に。29日上海着。

○明治8年10月30日、上海発、11月7日横浜着。

○明治8年11月7日 大久保利通に帰朝報告

 

 清国派出について

 

 明治8年の清国派出に関して大日本農史第3今世P170に以下のような記述があります。

 

 是月(明治8年5月)勧業寮七等出仕武田昌次、岡毅・・・等を清国に遣わして農産物等を調査し兼ねて羊、驢(ろば)及び穀采果樹等を購求せしむ。大日本農史第3今世P170)

 

 

 清国派出の命令は明治8年5月8日。同22日に横浜港を出発、同29日に上海到着。5か月間の買い付けと収集を終えて、武田昌次が上海港から東京に向け出港したのは10月30日、東京到着は11月7日でした。武田昌次が明治8年12月に提出した清国派出の報告書の書き写しが2通現存します。1通は東京国立博物館に、もう1通は早稲田大学図書館に所蔵されています。大久保利通内務卿あてに提出された復命書原本そのものは今のところ発見されていません。内務省に火災があり、多くの記録文書が焼失してしまいましたが、復命書原本もそのひとつだったかもしれません。

 

(左クリックで拡大画像になります。)

  清国派出復命書(東京国立博物館所蔵)

  東京国立博物館のホームページはこちらです。 http://www.tnm.jp/

 

  清国派出復命書(早稲田大学図書館所蔵)

  早稲田大学図書館のホームページはこちらです。 https://www.waseda.jp/library/

 

   早稲田大学図書館所蔵の「清国派出復命書」は早稲田大学社会科学研究所によって

  全文活字化され大隈文書第4巻に収録されています。

 

2通の書き写しの特徴は以下のようです。

 

 

東京国立博物館所蔵書

早稲田大学図書館所蔵書

使用用箋

内務省草稿用箋(黒色)

内務省本用箋(朱色)

武田昌次の印

なし

なし

提出年月日

なし

なし

由来説明書き

武田昌次より借り入れ、明治10年11月20日写取

大正11年4月大隈侯爵邸寄贈

記述の違い

1頁目

32頁目

 

(他精査中)

 

 

 

 

 

 

為に

勧業七等出仕武田昌次

 

為めに

勧業寮七等出仕武田昌次

 

 

 これらのことから、筆者は以下のように考えます。

 

1)両書とも武田昌次の押印がないので、大久保利通内務卿あてに提出された復命書原本ではなく書き写し文書です。

 

2)東京国立博物館所蔵の文書は その由来説明書きにより、武田昌次から基になる文書を借りて書き写したものと確定できます。書き写しの基となったのは、武田昌次の提出復命書の控え、あるいは下書きと思われます。表紙には「武田昌次より借り入れ、明治10年11月20日写取」とありますので、武田昌次が博物局一等属書記官になった後、武田昌次が所有していた控え〈あるいは下書き)から、博物局内で写し取りが行われたものです。清国派出復命書は勧業寮(明治10年当時には改称して勧農局)の文書であり、写し取りは博物局の正式業務及び文書でないため、黒色の草稿用箋が使用されたのだと思います。保管に関しても、局としての記録文書でないため、博物局ではなく、博物局の直轄の博物館(現在の東京国立博物館)に保存されていたのはうなずけます。

 

3)早稲田大学図書館所蔵の文書は大隈重信が所有していたことと使用用箋が内務省の朱色用箋だったことを考えると、これは提出された報告書原本の内務省内の正規の書き写しであると筆者は考えます。報告書原本は大久保利通のところで保管され、閲覧のために書き写しがされたのだと思います。現在のように申請書や報告書が正副2通提出されるようになる前のことです。

 

4)両書に内容の食い違いは全くありませんが上記の比較表のように、記述の精度から考えると東京国立博物館所蔵の文書は控え(あるいは下書き)からの書き写しで非公文的な文書、早稲田大学図書館所蔵の文書は校正済最終版の提出報告書の書き写しで公文書と思えます。

 

 

 報告書名は「清国派出復命書」で内容は時系列の旅程記録と買い付け品目録です。武田昌次の記述に加え、同行者の記述もあります。79ページもの報告書で、その内60ページを武田昌次が記述しています。買い付けに関しては以下のようです。

 

・上海までの旅程で37品目の買い付けと収集をしています。驢馬(ろば)120足、羊  74足、農作物の苗木や種、魚、のほか道具や書籍もあります。

 

・天津までの旅程で苗木及び種子を29種買い付けています。

 

・北京地方での買い付けと収集は驢馬(ろば)47足、羊42足、騾馬(らば)2足、馬具、種子、書籍など全14品目です。

 

・湖南、湖北地方では19品目の買い付けと収集をしました。

 

・江南地方では苗木、茶、織物など31品目の買い付け、収集をしました。

 

買い付けと収集の途中で、10月14日に(ろば)87足、羊70足を第一便として米国船で東京に送りました。

 

 

蓮根について

 

 明治8年の清国派出に関連して大日本農史第3今世p211~212に以下のような記述があります。

 

是月(明治9年10月)・・・勧農局に於て清国蓮根の肥大且つ美味なるを聞き之を同国に求む是に至て送致す因て之を新宿試験場の水田に移植す。この蓮は前年武田昌次等清国派遣の際同国に於て其の良品なるを知り帰朝の後之が移植を謀りしなり其のぐ(はすのね)は節間頗る短く其の太さは我が産に倍し多肉肥豊孔小さく其 の味わいの佳良なるは我が白蓮根に近し。

 

大日本農史が絶賛している蓮根は、上海までの旅程で37品目の買い付けと収集品目の中にあり、次のように記載されています。

 

ぐ(蓮の根)径三寸に至るありて、我が邦の種類に異なり頗(すこぶ)る食用に適す。

 

 現在、日本の蓮根の産地は茨城県ですが、栽培品種の大部分は支那バスだそうです。大日本農史に茨城県への移植につての明確な記述は見つからないのですが、新宿試験場から各地に移植されたものと考えられます。

 

魚の収集と養魚法について

 

 また、明治8年の清国派出に関連して大日本農史第3今世p217に以下のような記述があります。

 

 是歳勧業寮新宿主張所に於て・・・・・・欧米各国の養魚法に倣い本邦中魚族に乏き地方に魚苗を移植栓が為め寮員を茨城県下に遣し鮭魚の移植法を試験せしむ。養魚法はさきに勧業寮7等出仕武田昌次等の清国に到りしとき彼の地の方法を見聞きし来るに起こり。

 

・上海までの旅程で37品目の買い付けと収集をしていますが、その六品目は魚です。「以上六種の魚類は悉く図説あり。」とあります。これは、購入した現地の特産物関連書籍の図説をさしているものと思われます。

 

・湖南、湖北地方では19品目の買い付けと収集をしましたが、そのうち9品目は魚です。魚に関しては、「以上九種の魚類は湖南湖北地の長江より得るもの。図説あり。」とあります。これは、購入した現地の特産物関連書籍の図説をさしているものと思われます。

 

・江南地方では苗木、茶、織物など31品目の買い付け、収集をしましたが、そのうち9品目は魚です。魚に関しては 「六種の魚は寧波に得るものにして之を塩に蔵す。 」とあります。塩漬けにして標本を日本に持ち帰りました。「流水清く、風景真に画くが如し・・・・此の辺河の両岸に堤を築き魚を養うあり。之を魚苗と云う。」との記述があります。単に買い付けと収集をしたのではなく、養魚場を視察し、養魚法を聞き出していることがわかります。

 

 

清国人の雇用について

 

 さらに、大日本農史第3今世p191に以下のような記述があります。

 

 是月(明治9年2月)清国人仇金實、陸亭端を雇い家禽の人口孵卵法(ふらんほう)を試験す。

 

 上記に関して近代日中関係史人名事典の中で中野弘喜氏は以下のようにまとめています。

 

 明治8年5月に内務省勧業寮7等出仕だった武田昌次は清国派出の命を受け、主に農産物に関する視察調査を行った。この際に鳥類の人口ふ化技術調査も行っており、武田が帰国後に提出した報告書に基づいて2名の中国人技術者が勧業寮に招聘された。   (近代日中関係史人名辞典、2010、p357)

 

 家禽の人口孵卵については同行の岡毅が図入りで現地視察の詳細を記述しています。明治政府は世界の最先端技術を導入するために事あるごとに外国人を雇用していました。特に米国人は多く、下掲の牧畜家ジョンスもそうです。清国人の雇用も、これがはじめてではなく、武田昌次らの清国派出以前にも行われていました。大日本農史第3今世p166に以下のような記述があります。

 

 内務省に於て製茶の輸出を謀り清国人を雇い以て其の製方を博習せしめんことを太政官に稟議して裁可を得たり。尋て清国人姚秋桂、凌長富の二名を傭い・・・・

 

 

ーー>農務顛末第5巻の清国人の雇用についての記述 準備中

 

 

大久保利通の重点政策について

 

 大久保利通の重点政策として、富岡製糸場の推進がよく知られています。富岡製糸場は日本の近代化と工業化推進の中心となったばかりでなく、絹の輸出によって外貨を稼ぎ、日本経済を向上させました。大久保利通の重点政策として、もう一つ、あまり知られていませんが、牧羊があります。大日本農史第3今世の明治8年の項に、以下のように記述されています。

 

八日(明治8年5月8日)内務省に於て大いに牧羊の業を開かんが為め米国の牧畜家ジョンスを雇用せんことを太政官に稟申し裁可を得たり尋でジョンスに交付する命令書按を開申して勧業寮雇と為す。     ( p168)

 

内務省の牧羊政策は日本経済の救世主ともなり得る期待がかけられていました。日本の近代化、西洋化が進み、毛布の輸入が増大し貿易収支を大きく圧迫しており、国産化は急務でした。このような背景があって武田昌次らの清国派出による羊の買い付けが実行されたのでした。内務卿大久保利通の本気度は以下のようです。

 

同(明治8年)八月十日内務省の牧羊開業計画及び出費収入予算書を太政官に稟議して裁可を得たり。前途八年半の予算にして最初一年半の費用十一万五千円なり。

    (p174)

 

同(明治8年8月)三十一日、内務省に於いて牧羊の業を各地に開かんとす。因て生徒を府県に徴集して其の術を講習せしむ。     (p175)

 

(明治8年9月)二十五日内務卿大久保利通は・・・下総に至り牧場に充つべき土地の全面をと定し印旛郡十倉七栄の雨村に於て一千四百十九町八段二畝二十四歩の地を購収し創めて牧羊場を設く。    (p176)

 

記録によりますと、大久保利通が自ら出向いて牧羊地とする広大な土地購入をしたばかりでなく、場内の設計もしたとあります。大久保利通自ら指揮を取る牧羊事業はその政府予算規模も大きく、羊の購入は武田昌次による第一便送付は70頭でしたが、9年8月には1,200頭が到着、その後も購入は続き、清国以外に米国やオーストラリアからも輸入しました。

 

○明治9年(1876)初等教育用に編算した「動物図」全25図の編算に関わる。

 

全24葉の内容は以下のようです。 *印の3図は武田昌次が記述者として直接関わったものです。

 

アザラシ

ウチワフグ

オシドリ

ヤマドリ

シビレエイ

オサガメ・アサノハガメ

アシカ

サンショウウオ

マンボウ

セイラン

サイ

スイゾウ(セイウチ)

スアシ、マアー(ハクビシン)

オットセイ

ハリネズミ

アリクイ・センザンコウ

ウサギウマ(ロバ)   *

ヒツジ(揚州種)   *

ヒツジ(蒙古産)   *

シカ

カモシカ

タイマイ

ナガオドリ

 

「動物図」の所蔵は現在では希少で、国会図書館が全25葉のうち11葉、東京国立博物館が20葉所蔵しています。武田昌次が筆者として直接かかわった3葉の内2葉を東京国立博物館から画像提供をいただきました。

 

(左クリックで拡大画像になります。)

 

 動物図:ウサギウマ(ロバ)と ヒツジ(揚州種)(東京国立博物館所蔵)

 東京国立博物館のホームページはこちらです。  http://www.tnm.jp/

 

 

 武田昌次は田中芳男のもとで動物図の編纂に関わりましたが、ウサギウマ驢(ろば)蒙古産 ヒツジ綿羊蒙古産、ヒツジ綿羊揚州種の3葉については自ら説明文を記述しました。この3種の動物は武田昌次の明治8年5月の清国派出時に明治政府として買い付けを行ったものです。これらは日本に存在せず、日本導入の期待が寄せられていたものです。特に羊は日本経済の救世主ともなり得る期待がかけられていました。大日本農史第3今世によれば、毛布の輸入が増大し貿易収支を大きく圧迫しており、国産化は急務でした。

 

 この花形家畜の買い付けを担当したのが武田昌次でした。動物図で説明文を担当するには、この人を置いて他にはなかったと言えます。以下はその説明文の活字化です。(本文中のカタカナはひらがな表記にしました。)

 

ウサギウマ 驢(ろば) 蒙古産

明治九年一月 武田昌次記 田中芳男校 中島仰山画

 

 驢は支那領の内にて蒙古産を良種とす。茲に図する動物は明治八年北京より購求し勧業寮の牧場東京駒場及び下総取香牧に飼養するものなり。形は馬に似て小く耳長大なるが故にウサギウマの名あり。毛色一ならず全体灰色にして肩より前両脚と背上より尾に至るの黒條あるを純驢の徴とす。其他黒色鹿班等あり。性愚鈍なるも負担の用をなし殊に嶮路を登降するに適し粗食に堪え病に感すること少く且柔軟なるを以て蹴噛の害なく婦女子と誰も使役し易し。是農家に飼養して益とする動物なり。然も其れ性愚鈍瀬渚なれば鞭咎を加えざるは進むことなし。又壮驢と牝馬の仔を騾(らば)と名く。形長大にして負・乗馬に用するに甚だ可なり。然に其仔は必ず牝のみにして牡なく又牝なるも仔を産することなし。北京辺にては往々騾の字を驢に充て混用せり。

 

 

ヒツジ 綿羊 揚州種

 

 此綿羊は支那揚州産にして牡牝とも角なし。(稀に角ある者あり。蒙古産の角に似て湾曲少し按するに如此者蒙古産と交る者の仔ならん。)全身の毛色白く其の耳の形細長し。前脚は細く後ろ足は豊かなり。欧州種は一産一仔を常とすれども揚州種は一産多くは二仔或は三仔あり。其毛は上等ならず肉は食用に宜し。且仔を産すること多く性強壮なるを以て初心の牧者に拳養せしむるに可なり。

 

 茲に図するものは明治八年支那より購求するものにして牡牝とも四歳なり。全体の量雄は十貫二百目牝は十貫四百目あり。

 

明治九年一月 武田昌次記 田中芳男校 中島仰山画 

 

 

ヒツジ 綿羊 蒙古産

 

 此綿羊は支那領の内蒙古産にして明治八年五月支那より購求す。其牡には痩角あり湾曲して螺旋状をなす。其毛は白色なれども面部より前脚に至る暗褐色又は黒色斑文をなす。是蒙古産の殊標なり。蒙古産は強壮なるを以て一千より三千に至るの大数をも僅か十二名の飼人にて之を駆り北部の嶮山を越え北京に輸送す。此羊は食用を第一とし織物に毛を用うるは其次なり。茲の図する動物は三歳のものにして牡は十一貫六百目牝は十一貫目の量あり。

 

明治九年一月 武田昌次記 田中芳男校 中島仰山画

 

○明治9年6月、内務省勧業京都博覧会が開かれ、貞市右衛門が褒状を受ける。武田昌次は審査官を務める。

○明治10年、内務省がアメリカから西洋蜜蜂を輸入、新宿試験場にて飼育試験始まる。

 

 詳細はこちらに記述しました。ーー>3)日本最初の西洋蜜蜂飼育  

 

明治11年1月、田中芳男の建議により内務省勧農局派出所を小笠原島に置き、武田昌次が責任者に任命される。

○明治11年2月27日、小花作助あて書簡。

明治11年3月、インド、ジャワへ出張。

○明治11年6月、買い付け品を日本に発送。

○明治11年8月5日、 インド、ジャワから帰国。

 

ーー>爪哇印度復命書解説準備中

 

爪哇印度復命書(武田昌次、明治11年提出の書き写し、國立臺灣大學圖書館所蔵)

 

 

ーー>台湾各所で所蔵の明治政府関連文書につい解説準備中

 

 

○明治11年11月5日、武田昌次が長男や農夫らを伴い来島。この時、コーヒー苗木約500本と西洋蜜蜂数箱を小笠原島に移入。

 詳細はこちらに記述しました。

  ーー> 5)小笠原島のコーヒー移植  

  ーー> 6)西洋蜜蜂の小笠原島移入 

 

 内務省文書として、小花作助の小笠原島要録に武田昌次の来島の詳細記録があり、明治11年11月5日郵船社寮丸にて來島。同行者は以下のようです。

 

長男:重吉

勧農局農夫小頭:長谷川義蔵

農夫:三宅直廉、菊池元蔵、柳生久丘、浮田直之助、金子金蔵、佐藤福吉、奥山文吉、沖山新兵衛、浅沼助蔵、

勧農局小使:渡邊勇三郎

武田昌次随行:堀井延吉、菊池勝太郎

 

(小花作助著小笠原島要録第3,146項)

 

社寮丸についてーー>準備中

日本郵船船舶100年史写真準備中

 

○明治12年2月、武田昌次は明治11年に小笠原島に移植した植物の成績報告を勧農局に提出しました。

○明治12年5月6日、新宿試験場は廃止され、宮内庁管轄の植物御苑となりました

○明治12年7月、武田昌次一時帰京

○明治12年、新宿試験場の西洋ミツバチは2群だけ新宿植物御苑に残し、他は各府県に払い下げられました。

○明治12年11月、一時帰省で東京に滞在していた武田昌次が帰島しました。

 

 明治12年12月5日に青龍丸にて帰島。同行者は以下のようです。

 

妻:ヨネ

長男:重吉 

二男:要吉

長女:きふ

下卑:小宮さと 

内務省勧農局農夫小頭:内藤清風

一等農夫:中尾寿一、松崎伝七

 雇農夫:河合清明、田村熊次、石神久五郎、宮崎長之助、安藤平蔵、根岸為吉、井島喜作、鈴木竹次郎、桜田前八、弓場弥一郎、武田喜之助、山田五郎兵衛、須賀藤次郎、池島清吉

 

青龍丸についてーー>準備中

 

 

○明治13年10月8日、内務省所轄の小笠原島を東京府管轄決定し布告。

○明治13年10月22日、小花作助に帰京辞令。

○明治13年11月5日、武田昌次は内務省から東京府に転出し、そのまま小笠原島試験  場の所長に就任。

○明治14年6月、一時出張所長代理、8月南貞助が2代目所長に就任。

○明治14年11月、依願退職し隠居。家督は長男武田重吉が相続。

○明治15年4月、役人も開墾可となり、6人が退職、島民として開拓に従事することに。

 

 

武田昌次の長男重吉について

 

 武田昌次の長男重吉の名が最初に登場するのは明治11年11月5日の郵船社寮丸にて小笠原島に到着した渡航者名簿です。出張所長として赴任した武田昌次に同行した2名の従者、11名の勧業局農夫のほかに、長男重吉は家族として、いわゆる特別秘書のような役割で同行しているように思われます。武田昌次が小笠原入りしたのが43歳ですから、この時点で長男重吉は18歳前後ではないかと推測されます。

 

 明治12年7月に武田昌次と共に一時帰京、同12月5日には家族全員を引き連れて、帰島しています。家族とは母、姉ふき、弟要吉。父昌次の傍らで、長男として頼りがいのある、頼もしい重吉です。武田昌次は面倒見の良い人物でしたが、長男重吉は父の寵愛を受け、同じように、面倒見の良い人間に成長していたようです。

 

  明治11年11月5日に小笠原入りした勧農局農夫は従者と親方を含め13人、明治12年12月5日に小笠原島入りしたのは同じく親方を含め17人です。これらの農夫は小笠原島でのコーヒー移植のためであり、小笠原島でのコーヒー栽培は内務省直轄の官営事業として大規模なものでした。棚引き山(現在のコーヒー山)と時雨山北山麓の原始林を開墾し、コーヒー苗を移植していく重労働でした。明治11年11月5日に到着した500本の苗木は明治12年に北袋沢に仮移植され、さらに挿し木や蒔種により増殖され、明治13年には6月には、リべリカ種のコーヒー4,296本、その他のコーヒー苗58,146本を移植しました。重吉も小笠原では出張所の農事に携わり、勧農局雇農夫の先頭に立って肉体労働をしていたようです。

 

 明治14年11月に父昌次は持病のため依願退職しました。重吉は武田昌次から家督を継ぎ家長として、その直後、病気理由による父昌次の小笠原島滞在延長の申請をしています。鈴木高弘氏は次のように記述しています。

 

「実父昌次儀、客年11月中依願本官を免せらる、直に帰郷可仕之処、宿病の為め暖気之候迄滞島出願致候」(東京府出張所日誌)とあり、重吉共々寄留延期を許可されている。

 (小笠原島要録第二編、p12)

 

 明治15年4月、役人も開墾可となり、定雇農夫6人が退職、島民として開拓に従事することになりました。この6人は武田重吉をリーダーとする旧勧農局員グループとして活躍しました。鈴木高弘氏は次のように記述しています。

 

 武田重吉をリーダーとする旧勧農局員グループによって初めて本格的な甘蔗栽培が開始されたことを注目すべきであろう。 (小笠原島要録第二編、p13)

 

 重吉は長谷川常三郎と共に小笠原の農業開発に尽力しました。島の中心的な農業者として活躍する長谷川常三郎は武田昌次の娘婿で、明治18年9月14日には島会議所(現在でいう議会)の扇浦地区議員に選出されています。

 

武田昌次の後継者たちについて

 

 武田昌次の後継者たちを知る文献として下記の3点があります。また、その根拠となる情報源及び史料は付記した通りです。

 

小笠原島の養蜂状況(岩田太平治、養蜂の友6月号、明治43年、1910)

小笠原諸島歴史日記上巻(辻 友衛、近代文藝社、1995)

開拓期の小笠原(鈴木高弘、小笠原島要録第二編、小笠原諸島史研究会、2005)

 

 

 

 

 

 

而して此の蜂群は武田氏の女婿なる長谷川常二郎の管理する所となった。氏は熱心に之に従い蜂蜜の販売等に就いても種々工夫する所あったが、

 

 

 

 

後都合上氏は其経営に係る養牛と共に養蜂場を氏の平素信用せる砂岡伊三吉なる者に託し自身は東京に引揚げ牛乳店を営みつつあるも尚島なる蜂の管理者に向け書信を以て常に指図を怠られなかった然るに砂岡は不幸にも病死したので養蜂場の管理者は又も移動せられ砂岡の妹婿なる五十嵐八五郎なる人の継承する所となりて同氏に依りて今日に及んだのである。

 

○明治15年11月 

武田昌次が病気を理由に依願退職する。農業の振興を図る目的で長男や親類と共に暫く父島に滞在する。(p155)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

○明治16年10月

前勧農寮出張所長武田昌次の長男重吉と親類の長谷川常三郎連名で養蜂、牧牛、繊維植物などの事業拡張資金2500円の借用を農商務省に申請するも却下。

 

○14年11月

既に武田は官を離れ一介の寄留者の立場になって隠居し、家督は長男武田重吉が相続している。

 

「実父昌次儀、客年11月中依願本官を免せらる。直に帰郷可仕之処、宿病の為め暖気之候迄滞島出願致候」(東京府出張所日誌)とあり、重吉共々寄留延期を許可されている。 

 

明治15年4月、規則が改正され、出張所長を除く役人達にも土地開墾の許可が与えられた。武田昌次の退職にともない定雇農夫6名も退職、本島農民として開拓事業に従事することになった。武田重吉をリーダーとする旧勧農局員グループによって初めて本格的な甘蔗栽培が開始された・・

 

本島の中心的な農業者として活躍する長谷川常三郎は武田家縁籍の同居人である。  (p13)

 

 

<取材先>

明治42年と43年に小笠原島の養蜂視察。五十嵐八五郎氏に直接取材。

 

 

<史料>

小笠原島日誌(東京府)及び小笠原村所蔵文書か?

<史料>

明治政府の勧農政策と小笠原諸島の農業(津下剛、経済史研究所収、昭和9年)、農務顛末第30冊小笠原島(内務省)、

小笠原島日誌(東京府)

 

 

長谷川常三郎について

 

 武田昌次から蜜蜂の管理を引き継いだ長谷川常三郎を特定できる史料はあるのでしょうか? 小花作助による明治9年から14年までの小笠原島への渡航者記録によりますと、明治9年12月大工頭長谷川要七太平丸にて来島とあります。内務省小笠原出張所建設のための大工の頭領でした。明治10年4月に一旦帰京し、明治10年8月18日再渡来、家族全員が同行しました。家族とは、妻りき長男隅太郎、長女はま次男牛太郎でした。ここには常三郎の名はなく、この家族の一員ではないと思われます。要七以外は明治12年3月に全員帰京しました。

 

明治11年11月5日郵船社寮丸にて来島したコーヒー移植のための6人の勧農局農夫の小頭に長谷川義龍という名があります。勧農局農夫とは内務省勧農局が外国植物試験地に雇い入れた農業青年たちです。小頭とは親方です。自らも肉体労働に従事し、親方という立場を考えると、長谷川義龍も20代後半から30代前半くらいかと推測されます。長谷川義龍がその後帰京したり、家族を同行したことが小花作助の記録に見当たらないことから、長谷川義龍はまだ独身であったと思われます。

 

長谷川姓は徳川家臣に多くいます。生国は武蔵、すなわち現在の東京都、埼玉県、神奈川県北東部を含む地域。勧農局農夫小頭長谷川義龍も元徳川家臣の家系に生まれ、武士として育てられましたが、14歳の頃明治維新となり 25歳の頃、明治政府の現場の要職として小笠原入りしたと考えられます。

 

武田昌次の記述 準備中

 

武田昌次の退職にともない職を辞し本島農民として開拓事業に従事することになった元勧農局農夫小頭長谷川義龍のその後の消息はありません。ところが、辻友衛氏や鈴木高弘氏の記述に見るように、武田昌次の退職以降、長谷川常三郎という人物が重吉と行動をともにし、小笠原島農業を牽引し、小笠原島の中心的な農業者として活躍しています。これらのことから長谷川常三郎と長谷川義龍は同一人物と思われます。当時戸籍上の名前とは別の名を通名として使用していた例があることから、その可能性は大です。

 

士族出身の武田昌次の長女きふが長谷川常三郎に嫁いでいることを考えると、長谷川常三郎は、それなりの家系の出であり、それなりの要職にあった者と考えられます。こう考えると、勧農局農夫小頭長谷川義龍以外には相当する人物はいないと思われます。

 

 ところで、岩田太平治は武田昌次の女婿を「長谷川常二郎」と記述しています。一方、辻友衛氏と鈴木高弘氏は 「長谷川常三郎」と記述しています。岩田太平治の情報源は現地にて五十嵐八五郎からの聞き取り、辻友衛氏と鈴木高弘氏は内務省及び東京府公文書の精査です。岩田太平治の五十嵐八五郎からの聞き取りに関して、後継者である五十嵐八五郎が長谷川氏の名前を間違えるとは考えにくく、また、五十嵐八五郎が「つねさぶろう」と言ったのを岩田太平治が「つねじろう」と聞き間違えることも考えにくいです。音が違いすぎます。岩田太平治のき取り時のメモではどうでしょうか。「常三郎」と書いたのを後日「常二郎」と読み違えた。メモですから「三」と「二」の区別がつかなくなった可能性は大です。岩田太平治は聴き取り後、書き起こしに誤謬があり、「常二郎」となったと考えるのが妥当です。筆者が入手した当時の養蜂場写真にも「長谷川常三郎養蜂の図」とあります。結論的には「常二郎」ではなく「常三郎」が正しいということです。

 

昭和7年発行の渡辺寛の最新実利養蜂の経営では「長谷川常次郎」としています。記述内容は岩田太平治の記述と同じです。昭和41年発行の農林省畜産局編の畜産発達史も「長谷川常二郎」としています。これも、岩田太平治からの孫引きです。これらの書が名前の検証なしに「長谷川常二郎」を孫引きしたために、「長谷川常二郎」が小規模ながら拡散してしまいました。上述のように「長谷川常二郎」ではなく「長谷川常三郎」が正しいです。

 

岩田太平治が記述している「砂岡伊三吉」と「五十嵐八五郎」は特定できるでしょうか。小花作助による渡島者名簿には、明治12年3月6日豊島丸にて渡来者の中に、民間の開墾者「五十嵐捨吉」の名があります。また、明治12年12月5日青龍丸にて渡来者の中に、武田昌次の家族、勧農局の農夫17名、勧農局雇の缶詰製造担当者2名がいますが、その缶詰め製造職人が「砂岡三之丞」です。長谷川常三郎と同様、砂岡氏も五十嵐氏も通名を使用していたものと考えれば、両者は歴史上に確認できます。

 

2017年現在、小笠原には長谷川姓と砂岡姓の人はおりません。五十嵐姓は1戸だけです。「五十嵐八五郎」のご子孫か取材しましたが残念なことに、そうではありませんでした。

 

 

武田牧場について

 

農務顛末六第31小笠原島の文書

 

農務顛末六第31小笠原島(農商務省農務局、1957)の42に「洋種牛及び蜜蜂移植の件」と言う記録文書があります。

 

――>農務顛末六第31小笠原島(農商務省農務局、1957)写真準備中

 

p507~508に次のように記述されています。

 

洋種牛及び蜜蜂移植の件  明治11年9月  武田昌次

一、 意太利亞蜜蜂    弐箱

一、 洋種牝トク(小牛) 弐

一、 洋種牡トク(小牛) 壱

小笠原嶋着手に付は単に植物の業のみならず野花も有。之牧地も有之候。間、府縣貸與引当飼畜之分書面之通り。此度持越申度左候。得は、牛は兼て肥料の用に供し候。間、至極都合之義と存候。間、洋種牛之義は彼島にて外国人にて20頭も所持之者有之候処、格外之高価を申誇り候。間、内地より書面之通り先持越申度此段相伺候也。

 (ひらかな表記、句読点=筆者)

 

この文書は武田昌次が内務省勧農局小笠原主張所の所長として赴任間近の明治11年の9月に提出されたものです。明治11年8月5日に印度、爪哇から帰国し、爪哇印度復命書の執筆と小笠原島への赴任準備の中で蜜蜂と洋牛の持ち出し許可を申請した文書です。

 

洋牛に関しての要点は以下のようです。

 

あ)環境―>之牧地も有之候。

い)目的―>得は、牛は兼て肥料の用に供し候。間、至極都合之義と存候。

う)状況―>洋種牛之義は彼島にて外国人にて20頭も所持之者有之候処、格外之高価を申誇り候。

え)移入希望数―>牝2頭、牡1頭

 

これらの要点から武田昌次は小笠原島について赴任前に相当の情報を得ていたことがわかります。筆者はその情報源は田邊太一だと考えています。田辺太一は明治9年に小花作助らと共に小笠原島を調査した一人です。田邊太一は武田昌次と旗本時代からの入魂の中で、維新後は外務省に出仕していました。

 

維新前の旗本について、福永京助著海将荒井郁之助のp173に幕臣の仲の良い仲間が巫女を招いてナポレオン等を呼ばせてみた話と、別の日に仲間が集まって初めてパンを食し葡萄酒を呑んだ話が記述されています。その中に塚原重五郎と田邊太一がいます。塚原重五郎は武田昌次と改名し内務省で活躍しましたが、田邊太一は外務省で活躍しました。

 

明治9年に小花作助らと共に小笠原島を調査した田邊太一から、武田昌次は小笠原島の気候・風土・住民・生活・産業・植物・動物・地形・海運等々、小笠原島に関するありとあらゆることを聞くことが出来ました。

 

それらの情報をもとに、洋種牛及び蜜蜂移植の件で “之牧地も有之候”と牧牛の好環境をまず述べています。当時人工飼料がまだありませんでしたから、内地での牧牛には春から秋までは青草を餌として与え、冬には夏に作っておいた干し草を与えなければなりませんでした。一方、一年中青草があり、食すれば直ぐに芽を出す小笠原島では、干し草を作る必要がなく、一年中放し飼が可能でした。

 

牧牛の目的として、“得は、牛は兼て肥料の用に供し候。間、至極都合之義と存候。”と述べています。すなわち堆肥作りに主眼を置いています。勧農局小笠原出張所が推進する亜熱帯植物の移植、繁殖には肥料が必要でした。牧畜の副産物である糞尿による堆肥は基本肥料であり、堆肥作りは欠かせない仕事でした。

 

現地の牧牛の状況について、“洋種牛之義は彼島にて外国人にて20頭も所持之者有之候処、格外之高価を申誇り候”と述べています。これはピースを指すものと思われます。

 

武田昌次の「洋種牛及び蜜蜂移植の件」で移入希望数が“牝2頭、牡1頭”となっていることから、繁殖を見据えていたことがうかがえます。武田昌次の「洋種牛及び蜜蜂移植の件」が了解された記録文書は今の所見当たらないのですが、武田昌次による「小笠原島勧農局着手場明治11年一覧表」の動物の欄に“牛 牡子牛一、牝子牛一”と明記されていることから本申請が許可され、小笠原島に移入されたことは明白です。武田昌次が」申請したのは牡1頭、牝2頭でしたが、許可されたのは牝牡一頭ずつだったようです。

 

「小笠原島勧農局着手場明治11年一覧表」

 

「小笠原島志及」び「小笠原島総覧」の“牝牡2頭”との記述は、この「小笠原島勧農局着手場明治11年一覧表」を参考したものと思われます。

 

小笠原島誌纂

M21(1888)

小笠原島要覧

M21(1888)

小笠原島志

M39(1906)

小笠原島総覧

S4(1929)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

嘉永6年間米国水師提督彼理氏之(注)を舶し放牧移養せしを・矢とし

 

(注)彼理=ぺりー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

従来より土人の家に畜ふものあり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

明治3年の頃米人ピースなるもの扇浦の地に牧場を開かんとて布哇より移せし

 

 

 

 

 

 

 

本島牧畜の初は其最初の移住者にあり彼等は必ず若干の家畜を載せ来りしなるべければ即ち天保年度より己に多少の牛羊は本島上に生育し居れるなるべし

 

 

米国水師提督彼理の本島に寄航せるとき又牛羊其の他の家畜と家禽等を

島民に恵興し

 

 

1869年米人ピースが米国種30頭を南洋の一孤島たるセンチェン島より船載し来れる

 

 

 

明治31年勧農局出張所の設置せらるるや同局は純粋洋種牛牝牡2頭を本島種畜改良の資に供し

 

(注)“31年”は誤植と思われます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

嘉永6年ペルリが来島の際牛、羊、豚、鶏等の若干を放牧した

 

 

 

 1869年米人ピースが米国種30頭を南洋から齎した

 

 

 

 

 

明治11年勧農局出張所は、純粋洋種牛牝牡2頭を本島牧畜改良の資に供し

 

 

 

 

――>ピースの牧牛について準備中

 

2)牧牛の場所について

 

農務顛末第30小笠原島45出張所着手場明治11年一覧表及附録に勧農局小笠原出張所の試験地と各種建物の見取り図が収録されています。

 

――>小笠原出張所の試験地と各種建物の見取り図のスキャン

 

小笠原出張所の試験地と各種建物の見取り図には養牛地や牛舎はありません。と言うことは北袋沢以外の場所に設置されたと言うことを想像させます。

 

島の長老の記憶に微かに残る「武田牧場」と呼ばれていた場所があります。扇浦から小港に行く途中の長谷から中央道を登っていくと中央山に出ます。その右手(東)側は北方向に多少斜面ですが、かなり平坦な場所があります。この辺りが明治期から昭和期まで「武田牧場」と呼ばれていたということです。

 

――>2万5千分1地図スキャン準備中

――>中央山頂からの写真準備中

 

小笠原島旅行記( 服部廣太郎、植物学雑誌第20巻第231号、p256、 東京植物学会編、1906年、明治39年10月20日発行 )に以下のように記されています。

 

武田牧場は島の東側に位して連樹谷に尋て草木の繁茂せる所なるが、(中略)此地は開拓の当初武田某の牧牛せしことありしに因りて今は単に其名を止むるのみ。

 

――>植物学雑誌第20巻第231号の写真準備中

 

地名武田牧場の研究論文としては「消える地名か武田牧場」(延島冬生、首都大学東京小笠原研究年報第40号、2017)があります。また、同氏による記事が小笠原諸島地名辞典34にあります。

 

――> http://bonin-islands.world.coocan.jp/Placenames_Chichi.html 

 

これらの史料と研究成果から、中央山の東側斜面が、武田昌次が内務省勧農局新宿試験場から小笠原島に移入した洋牛牝牡2頭の飼育場所だったと特定して間違いないと思います。上掲の小笠原島旅行記に記述されている「武田某」とは、武田昌次及び長男重吉であったと疑う余地はありません。

 

 

3)武田牧場の推移

 

武田昌次は牧牛の経験と知識を有していたと筆者は考えています。米国に政治亡命していた2年間、サンフランシスコの大手農園で、アメリカ農業を体験したと考えられるからです。

武田牧場は武田昌次の指揮の元、武田昌次の長男重吉の手によってなされたと考えます。

 

11年及び12年には牧牛は堆肥作りが目的でしたが、繁殖も上手くいき頭数も次第に増えていきました。小笠原島志には 

 

4季草木繁茂常に芽を生ずる、放畜なれば交尾期なく分娩も然り、食料は全て草木の芽、種牛1に対して牝10頭の割合 とあります。

 

13年には東京府への所轄替えにより、内務省勧農局小笠原出張所は廃止となりました。牛は島民に貸附となりました。各誌は以下のように記述しています。

 

小笠原島誌纂

M21(1888)

小笠原島要覧

M21(1888)

小笠原島志

M39(1906)

小笠原島総覧

S4(1929)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

同13年に至り同出張所を撤去するに及びこれを田中鶴吉外数名のものに貸附し

 

13年同出張所を廃する時、之を島民に貸附して、その改良を計らしめた。

 

 

 

 

小笠原島志」には、その後の推移が詳しく記述されています。小笠原島志」によると、明治17年には小笠原には9個の牧場があり、その内5つは欧米系先移民の開設したもので、下掲の4個が新たに島民により開設されたものです

 

 

其3

其4

其7

其9

場所

南崎(官有地)

初寝浦(官有地)

宮の濱(官有地)

婿島(官有地)

開設年月

明治14年1月

明治14年4月

明治15年4月

明治14年12月

飼育頭数

24頭

6頭

9頭

8頭

牧主

 

 

 

 

内藤治兵衛

(二子村平民、

父島牧牛組合次長)

 

内藤治兵衛

(二子村平民、

父島牧牛組合次長)

 

木野佐平次

(宮の濱住平民)

 

 

 

田中鶴吉

(東京府平民)

 

 

 

 

 

――>内藤治兵衛について準備中

 

――>武田重吉の役割について準備中

 

 

4)小笠原島の牧牛の特徴

 

小笠原島の牧牛の特徴についての各誌の記述の要点は以下のようです。

 

小笠原島誌纂

M21(1888)

小笠原島要覧

M21(1888)

小笠原島志

M39(1906)

小笠原島総覧

S4(1929)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・4季草木繁茂常に芽を生ずる

・放畜なれば交尾期なく分娩も然り、

・食料は全て草木の芽

・種牛1に対して牝10頭の割合

 

 

・労力として活用

・島民による消費

・寄港船に販売

・副産物の糞尿による堆肥が基本肥料

・4時青草の絶えることがなく最適

・乳牛の飼育

 

 

 

 

 

 

 

 

小笠原島の気候と環境が牧牛に最適であることと繁殖の成功については先に言及しましたが、それ以外の諸点について以下に記述します。

 

 

<労力と>

 

欧米においては牛は食用でしたが、小笠原島の欧米系の先移住民は牛を食用とはしませんでした。豊富な水族を食用にしたためです。牛は食用にではなく、労働力として島の農耕に欠かせないものとなっていきました。

 

島民耕業大に進み牛を使用して農務に服せしむ20年12月現在の牛数左の如し。

 

とあります。

 

――>牛労働によるサトウキビ搾汁作業の写真準備中

 

 

<島民による消費について> 準備中

<寄港船に販売について> 準備中

 

 

乳牛の飼育

 

牛乳も生産されるようになり、事業拡大の動きがありました。小笠原諸島歴史日記上巻(辻 友衛、近代文藝社、1995)に以下のような記述があります。

 

明治16年10月、前勧農寮出張所長武田昌次の長男重吉と親類の長谷川常三郎連名で養蜂、牧牛、繊維植物などの事業拡張資金2500円の借用を農商務省に申請するも却下。

(p156 )

 

明治期の小笠原島では開墾すれば個人所有としてその土地は払い下げとなりましたが、牧場は開墾地とは異なり払い下げとはならず、官有地の拝借地でした。その理由は島は狭いので、広い土地を要する牧場よりも、多数の開拓者に土地を分配すると言う政策でした。小笠原島誌纂(小野田元煕、小笠原島庁)に以下のように記述されています。

 

明治15年島民共同して一牧場を南崎に開設し牛種を改良するため西洋種牛56頭其他牝牡30頭許りをかん養す。目下該牧場は廃止すれども各島の人民養成する處も亦少からず。聟島の牛種は殊に肥大を極む然れども本島の如き豆大の島地にありては到底牛の如き大動物を放牧して耕墾の地を狭少ならしむるの患あるを以て従来放牧する者の外島庁新に牧場を開くを許さず。近時孤島の移民なく耕播に便ならざるの地は特に之を許す。

(p398)

 

武田昌重吉と長谷川常三郎連名で事業拡張資金2500円の借用を農商務省に申請するも却下。その理由は牧牛の制限によるものと思われます。

 

――>長谷川常三郎について詳細準備中

 

長谷川常三郎は民間人となった明治14年以降、重吉に合流したと考えられます。武田昌次の帰京は15年3月? 16年10月時点では重吉は在島。

 

長谷川常三郎は明治18年9月14日、島会議所(現在でいう議会)の扇浦地区議員に選出される その後、牛乳の販路拡大のため帰京するまで在島。(時期不明) 明治23年時点では東京で獣医。

 

――>獣医免許のスキャン

 

 

 

武田昌次の持病について

 

 「武田昌次の長男重吉について」の項でも記述しましたが、武田昌次には持病があったようです。明治6年からの内務省の執務に影響が出るような病状にならなかったようですが、晩年になって、やはり悪化したようです。武田昌次の持病とは脚気だったようです。

 

 脚気とは、ビタミンB1の欠乏により起こる病気。倦怠感・手足のしびれ・むくみなどが出、末梢神経の麻痺や心臓衰弱を発症する。米を主食とする日本でかつては国民病といわれるほど多くの人が発症しました。

 

 

武田昌次の晩年について

 

かつて、貞市次郎に行って養蜂の新天地を切り開くよう勧めた小笠原島に、武田昌次はその後、自らが内務省勧農局小笠原出張所に所長として赴任となり数年が経過しました。コーヒーの移植、西洋蜜蜂の移入をはじめ小笠原島の農業の基を築きました。

 

小笠原はある意味新天地であり、また、別の意味では必ずしも新天地と言えるものではありませんでした。武田昌次は長男重吉、娘婿長谷川常三郎らの身内と共に、更なる新天地を求めて遠くに行ったのでしょうか? 英語が自由自在の武田昌次にとって、新天地はアメリカだったかも知れません。筆者が尊敬する教授方は以下のように記述しています。

 

 明治16年以降については定かでない。  (内務省期における農政実務官僚のネットワク形成(論文農村研究第104号(2007)友田清彦、P23)

 

いつどこで死去したのかは不明である。  (塚原昌義と武田昌次―物産学を学びアメリカへ亡命した旗本、洋学22,2014、樋口雄彦、P61)

 

ーー>最新情報記述準備中