3)日本最初の西洋蜜蜂飼育ーその1ー


 大日本農史今世明治10年の章に以下のような記述があります。

 

 この年、勧農局においてアメリカよりイタリア国種のミツバチを購求し、これを新宿試験場に飼養し内外蜜蜂の得失を試験した。   (大日本農史今世、p249~250)

 

 以下、各語句を詳しく検証していきます。

 

“この年”

大日本農史今世p249-250の記述の前後関係から、明治10年(1877)だと確定できます。

 

“勧農局において”

明治7年に設置された内務省勧業寮」は明治10年には「勧農局」と名称換えがされました。その農業政策は諸外国を視察し、植物、家畜を購入し、その栽培、飼育技術を導入すると言うものでした。(――>大日本農[3] 今世p136~137) 明治5年に設置され、明治7年に内務省の所管となった「内藤新宿試験場」においてその政策は推進されました。明治8(1875)の独逸農事図解第7蜜蜂養法の翻訳出版に見るように西洋蜜蜂養蜂も内務省勧農局の農業政策の対象でした。

 

“アメリカより“

当時アメリカは養蜂先進国でイタリアン種、カーノリアン種、サイプリアン種などをヨーロッパから導入し、養蜂の近代化と事業化が推進されていました。

 

アメリカ情報について、史料写真 準備中

 

“イタリア国種のミツバチを購求”

購入したのは、当時すでに最優良種とされてアメリカで広く飼育されていた“イタリアン種”でした。日本の気風土に最も適しているとの判断があったものと思われます。

 

ルート商会カタログ写真 準備中

 

“新宿試験場にて飼養し”

このようにして日本で最初の西洋ミツバチ飼育が内藤新宿試験場ではじまりました。日本最初の西洋蜜蜂の飼育です。内藤新宿試験場は現在は「新宿御苑」となっています。 新宿御苑の歴史の概略は以下のようです。

 

徳川家康が家臣であった内藤清成に江戸屋敷として広大な土地を授けました。内藤氏7代清枚が元禄4年(1691)に信州高遠城主となった後、内藤家は江戸屋敷のかなりの部分を幕府に返上しました。

 

明治5年に明治政府は内藤家から上納された土地と買収した隣接地を合わせた58.3ヘクタール の土地に、「内藤新宿試験場」を設置しました。明治7年には内務省の所管となりました。

明治12年、明治政府の農業振興政策拡充のなかで、内藤新宿試験場は、その幅広い役割を他に移し、宮内省所管の「植物御苑」になり、明治39年に皇室庭園「新宿御苑」と改称しました。

 

昭和24年5月21日から「国民公園新宿御苑」に改称して一般公開が始まりました。昭和25年からは厚生省所管でしたが、昭和46年、環境庁の発足にともない、全国の国立公園とともに所管を環境庁に移し、平成13年の省庁再編により環境省所管として現在に至っています。

 

         新宿御苑新宿門

 

“内外蜜蜂の得失を試験した”

内藤新宿試験場の任務は外国から購入した植物の日本適合試験を行い、繁殖し、その種、苗木を広く全国に頒布することと、同様に外国から購入した西洋種の家畜の日本適合試験を行い、繁殖させ、それらと西洋式農具を全国に貸与することでした。(――>大日本農史今世p136~137) 西洋蜜蜂もこの趣旨に則り日本適合試験がされました。本記述から日本蜜蜂の飼育試験もされたことがわかります。

 

 

日本蜂の飼育試験

 

 この時期の状況を記録した文献として、松本保千代編 草莽の農聖蜜市翁小傳、1959(昭和34年1月発行)があります。本書は全国の図書館中、和歌山県立図書館しか所蔵していません。国会図書館が所蔵しているのは本書が分割転載されている月刊ミツバチの昭和34年10月号、11月号、昭和35年1月号、2月号、6月号です。筆者は月刊ミツバチの転載分は所有しているのですが、いつかは原本を直接見に行きたいと長年思っていました。それが、2017年の秋に遂に実現しました。前もって、趣旨を伝えておりましたので、写真撮影やコピーもスムーズにさせていただきました。

 

草莽の農聖蜜市翁小傳(和歌山県立図書館所蔵)

 和歌山県立図書館のホームページはこちら

https://www.lib.wakayama-c.ed.jp/

 

 原本と月刊ミツバチの転載を比較すると、原本の「はしがき」は編者の松本保千代、転載の方の「はしがき」は月刊ミツバチの編者がそれぞれの事情に沿って記述したもので別文です。原本には「貞市右衛門略系図」が付いていますが、転載にはありません。原本では漢字書きになっていても、転載の方では平仮名書きにしているところや、その逆が何箇所かあります。転載の方に誤植があるのか「てにをは」が間違っているところがあります。また数字が違っているところが以下のように2か所あります。

 

  原本

  月刊ミツバチの転載

明治八年、国の方でも養蜂のことに眼をつけて、(p47)

明治六年、国の方でも養蜂のことに眼をつけて、(143号、p49)

人夫二人に蜜箱四個を担がせ、

(p47)

人夫五人に蜜箱四個を担がせ、

(143号、p49)

 

 転載の方の「はしがき」に “発行者の貞松一郎氏のお許しをえて、ここに転載することにした。”とあることから、原本の編者松本保千代は転載には関わっておらず、内容の訂正や補はなかったと確定できます。転載文に見られる誤植、原本との食い違いは全て転載時に起きたことと言えます。ですから史料としては原本を採用するのがもちろん妥当です。

 

 以下は原本から抜粋です。

 

 明治8年国の方でも養蜂のことに眼をつけて、この道の練達者として市右衛門に白羽の矢が立てられ召されることがあった。しかし自分はもう老境――明治8年には51才ーーにはいったし、家業を推し進めるのにも家郷を離れることが許さない事情にあったので、市次郎を推せんし上京さすことにした。(中略)

 

 市次郎は、人夫2人に蜜箱4個を担がせ、東海道を徒歩で日数を累ねて東京に赴いた。(中略)

 

 上京すると勧業寮蜜蜂飼養出仕係を仰せつけられて、内藤新宿の御苑内にあった勧業寮に勤務することになった。(中略)

 

 市次郎は父に従って経験した蜜蜂についての知識と技術を傾けて所謂蜜市流ともいうべき養蜂の研究と指導に没頭した。勿論この方面の技術官であった技師武田昌次などの新しく科学的な指導や示唆を受けて帰郷後の改良したり、業績を進めていくのに得るところ少なくなかった。家庭の問題や上京中の出費のことなどから滞京の期間を考えなければならなくなり、上京から約2ヶ年を経た9年12月、暇を請うて帰省した。

 

 武田昌次氏は熊々市右衛門の業績に期待を持って東京からこの宮原の草深い田舎に来てその実情を見た人で、市次郎に小笠原へ行って、養蜂の新しい天地を開拓するように勧めてこの技術の発展を期待した。武田氏は政府の技術指導官で、市次郎上京のことも同氏の斡旋と推薦によるものであろうし、滞京中もよく面倒を見ておられたようである。帰京後自園の蜜柑を贈って謝意を表している。明治十年の内国勧業寮博覧会の際も審査担当者であった。

 

 
 
貞市次郎について下記の著書に言及があります。多少食い違いがありますので対照してみたいと思います。

 

蜜市翁小傳

松本 保千代編

1959(昭和34年)

 

最新実利養蜂の経営

渡辺寛 

昭和7年、p19

―――――――――

実験50年養蜂経営の実際

渡辺寛

昭和25年、p78

―――――――――

近代養蜂

渡辺寛

昭和49年、p205

畜産発達史

 

新宿勧業寮出張所の日本蜂

p1316~7

はちみつとチーズ読本、小田忠信、

平成25年

p27

(明治8年)上京すると勧業寮蜜蜂飼養出仕係を仰せつけられて、内藤新宿の御苑内にあった勧業寮に勤務することになった。(中略)上京から約2ヶ年を経た9年12月、暇を請うて帰省した。

 

 

 

明治10年9月紀州蜜市翁の息貞市次郎を招きて蜜蜂係を申し付け、特に米国からイタリアン種をも輸入して内外蜜蜂の比較試験を為さしめた・・・

1975年(明治8)内務省属武田昌次は、紀州宮原の地に前記貞市右衛門を訪れ、上京して養蜂の研究に当たらんことをすすめ・・・

 

1875年(明治8年)、内務省農業技術官武田昌次は、和歌山県の貞市市次郎(当時21才)

を招き、勧業寮のミツバチ飼養出仕係に任じました。(中略)

貞市は1876年(明治9)に帰省しました・・・

 

 上掲の対照表から以下のような事柄がわかります。

 

あ)はちみつとチーズ読本の「貞市」という姓は間違い。姓は「貞」で、名は「市次郎」です。

い)「畜産発達史」と「はちみつとチーズ読本」は「蜜市翁小傳」が元資料と思われます。

う)渡辺寛の記述は元資料不明。”明治10年9月”の根拠不明。

 

 

市次郎の上京時期について

 

 草莽の農聖蜜市翁小傳草莽の農聖蜜市翁小傳は蜜市が記録していた帳簿や貞家に保存されていた史料をもとに貞家の歴史をひ孫にあたる3代目蜜市貞松一郎が発行、その編纂を松本保千代が委託されたものです。原本、転載とも貞市右衛門略年譜が付いていますが、大変詳しいものです。その中に、貞市次郎に関する記録もいくつかあります。明治8年のところに 次のように書かれています。

 

 市次郎召によって父に代わって上京、勧業寮に蜜蜂のことで勤む

 

 原本には「貞市右衛門略年譜」の後に「貞市右衛門略系図」が付いています。市次郎については次のように書かれています。

 

 法名 釈西行 安政二年生る、母田辺屋の女、文久二年三月四日八つ判祝、明治八年上京、勧業寮養蜂勤務、九年十二月帰国、村山市左衛門女かめのと結婚、吉田氏を称、三十一年渡米、三十四年七月二十三日彼地に客死。

 

 貞市次郎が上京し勧業寮に勤務したのは明治8年で、21歳でした。何月に上京したのかについては言及はありませんが、蜂を和歌山から東京まで担いで運んだことを考えると、まず夏ではありえません。春又は秋も不可能ではありませんが、最適なのはやはり冬ということになります。東海道を蜂箱を担いで上るのですから1ヶ月はかかります。和歌山を2月中旬から末までくらいに出発し、東京には3月中旬から末くらいまでに到着したのではないかと筆者は考えています。その根拠は以下のようです。

 

1)第1は内務省勧業寮の活動パターンです。内務省勧業寮の活動は年初めに決定が出、動き出すパターンが多いです。明治8年1月初めに、蜜市招聘案が出、武田昌次が和歌山に出向き、面談は1月末頃。蜜市は応じませんでしたが、市次郎を推薦し、人夫2名に蜂箱4個を担がせ上京することになりました。準備に最低10日程度は必要ですから、一番早くて出発は2月中旬、遅くても2月末には出発可能です。

 

2) 第2は武田昌次の明治8年の活動記録です。武田昌次は明治8年の活動記録を確認すると5月22日から清国出張、帰国は11月7日で、帰国後は年内いっぱい報告書の作成に当たりました。ですから、武田昌次のスケジュールからみますと、4月末までに養蜂の全ての段取りをつけておく必要がありました。和歌山を2月中旬から末までくらいに出発し、東京に3月中旬から末の到着であれば、出張前に市次郎関係の十分な段取りができます。

 

3) 第3は松本保千代の記述です。上京から約2ヶ年を経た9年12月、暇を請うて帰省した”とあります。帰郷が明治9年12月ですから。約2年前の明治8年の月はと言えば1~3月と言えます。

 

 以上の観点から明治8年の2月中旬から末までくらいに和歌山を出発、東京には3月中旬から末くらいの到着と言いうのが筆者の推測です。最大ずれても後に1ヶ月程度です。

 

 

新宿試験場での貞市次郎の養蜂について

 

 市次郎が新宿試験場に運んだ蜜蜂は父市右衛門が和歌山で飼っていた日本蜂でした。市右衛門は種々工夫をし、移動用巣箱も独自に開発していました。前後金網で、サイズはかなり小さく幅30cmx奥行40cmx高さ24cm程度のものでした。

 

ーー>写真準備中

 

 上京時、人夫2人に4箱の巣箱でしたから、1人2箱、天秤棒の両橋に巣箱をくくり付け、担いで運んだもの思われます。移動用の巣箱は蜂量主体でしたから、巣碑や貯蜜は少なくし、1箱10kg程度、重くても15kg程度でした。背負うよりも天秤棒で担ぐ方が体に負担が少なく、東海道での荷運びに良く見られた運搬方法でした。

 

蜜蜂運搬の図ーー>写真準備中

 

 

 上京すると勧業寮蜜蜂飼養出仕係を仰せつけられて、内藤新宿の御苑内にあった勧業寮に勤務することになった。(中略)

 

 市次郎は父に従って経験した蜜蜂についての知識と技術を傾けて所謂蜜市流ともいうべき養蜂の研究と指導に没頭した。勿論この方面の技術官であった技師武田昌次などの新しく科学的な指導や示唆を受けて・・・・

 

 上記にみられるように、明治8年の内務省勧業寮新宿試験場での養蜂試験は、定説のまだない日本蜜蜂の飼育法と生態を知り、近々予定している西洋蜜蜂の日本適合試験の為の準備でした。内務省勧業寮新宿試験場の任務は外国の動植物を輸入し、日本適合試験を行い繁殖させ、それらを日本各地に貸し出すか、払い下げることでした。市次郎は勧業寮の蜜蜂飼育者たちに、父蜜市の飼養法を伝授しました。また同時に語学堪能で、アメリカの養蜂事情や新技術について知識を持っていた武田昌次から、海外の養蜂について学びました。

 

 

 市次郎の明治9年12月帰郷について

 

 勧業寮では、日本蜂の飼養試験だけでなく、西洋蜜蜂の輸入と飼育試験を予定していましたから、市次郎には、この後、西洋蜜蜂の飼育試験に進んでもらうはずだったと思います。しかし、家庭の問題や上京中の出費のことなどから滞京の期間を考えなければならなくなり、上京から約2ヶ年を経た9年12月、暇を請うて帰郷しました。

 

 市次郎はまだ独身でしたから、“家庭の問題” とは妻子に関わる事柄ではないはずです。家系図からわかることは、右衛門右衛門の子は長男市次郎、長女ふさの、次女たかです。ふさのは婿を取り別家、たかも婿を取り、この婿が2代目蜜市となりました。貞家に起こっていたごたごたを編纂者松本保千代は詳細には記述せず、“家庭の問題”としたのだと思われます。 

 

 在京中の市次郎には経済的な問題もありました。和歌山で父のもと自営業に携わっていた時には、ある意味裕福でしたが、国の給料は決まった額で他の同列の勤務者と同等で特別扱いはされていなかったと思われます。家庭の問題と経済的な問題から、暇をもらい帰郷しました。明治9年12月のことでした。12月22日には帰郷のお祝いが開かれ、市次郎は16人以上の関係者にみやげを渡しています。また、10人程度の来賓から帰郷祝いの金品を贈られています。(p49~51)

 

 

武田昌次とのその後の付き合いについて

 

 市次郎の在京中の約2年間に内務省の日本蜂飼育試験は進み、蜜市流の飼育法により日本蜜蜂の生態や特性は検証され、日本蜜蜂の飼育試験は終了したと言えます。市次郎は2年目の越冬準備までやり終えてから暇を請うたのであり、決して途中で投げ出したというものではありません。帰郷により、長期勤務を期待していた武田昌次らとの人間関係が崩れたということはありませんでした。帰郷後、自園の蜜柑を贈って感謝の意を表したと記述されています。貞家の日本蜂の蜂蜜はその後も内務省主催の博覧会に出品され、賞を与えられています。ここにも、武田昌次との友好関係がうかがえます。

 

 武田昌次が市次郎に小笠原島行きを勧めた件については 付5)武田昌次の足 に詳しく記述しました。また、市次郎の渡米については 付6)武田昌次は幕臣塚原但見守昌義 に詳しく記述しました。ご参考ください。

 

 

渡邉寛の異説につて 

 

 上掲の貞市次郎の関する著述の比較表の中で渡邊寛だけが異説を唱えていました。再度転載してみます。

 

 明治10年9月紀州蜜市翁の息貞市次郎を招きて蜜蜂係を申し付け、特に米国からイタリアン種をも輸入して内外蜜蜂の比較試験を為さしめた・・・

 

 この記述は最初、昭和7年出版の最新実利養蜂の経営」に登場し、その後、昭和25年出版の「実験50年養蜂経営の実際」、昭和49年出版の近代養蜂」と引き継がれ現在に至っています。その間、各書とも改訂や増補はあったのですが、訂正されることはありませんでした。この記述には、どのような根拠があるのでしょうか。どのような史料があるのでしょうか。筆者は、もしかしたら何か根拠や史料が存在するかもしれないといろいろ調べてきましたが、現段階では、その説を支持するものは何もありません。本稿で検証しましたように、市次郎の上京は明治8年、明治9年12月までの勧業寮の飼育試験は日本蜂で、市次郎の帰郷後の明治10年3月頃から西洋蜜蜂の飼育試験が始まりました。ですから、市次郎はこれには携わらなかったのです。

 

 市次郎の上京した明治8年には渡邊寛はまだ生まれていません。渡邊寛の誕生は明治17年(1884)7月12日です。24歳になった渡邊寛は明治40年2月22日に和歌山の2代目蜜市を訪ね、日本蜂の買い付けをしました。2代目蜜市貞房吉は市次郎の妹たかの入り婿です。その晩は囲炉裏を囲んで養蜂話で盛り上がったという記述が「ある養蜂家の生涯」にあります。以下のような記述です。

 

 その晩は藁灰の火桶を囲んで、先代蜜市翁の苦心談をきかせてもらうことができた。初代蜜市は宮内省勧業寮の養蜂係などをやった閲歴もあり、話は大いにはずんで・・・ (p21)

 

 ここでは、上京したのは市次郎ではなく父市右衛門だったことになっています。また勤務先が宮内省勧業寮と言われていますが、正しくは宮内省ではなく内務省です。これらは、2代目蜜市貞房吉の記憶間違いや、「ある養蜂家の生涯」をまとめた力富千蔵に、この場の話を語った渡邊寛にも混乱や知識不足があったと思われます。ここまで、混乱しているとどんな話があっても不思議ではありません。この時に、それが明治10年9月だったとかいう話もあったのではないかと筆者は考えています。

 

 27年後の昭和7年、「最新実利養蜂の経営」の中に、2代目蜜市から聞いた感動的だった話から明治10年9月と言う日付けが記述されたのではないかと思います。上京したのは蜜市ではなく市次郎に正されていますが、宮内省は内務省に訂正されず、明治10年は明治8年に訂正されることはありませんでした。この時点でも貞市次郎が西洋蜜蜂飼育に携わったと考えていたようです。

 

 蜜市一家についての詳細がわかる「草莽の農聖蜜市翁小傳」が3代目蜜市の貞松一郎によって発行されたのは昭和34年でした。これに含まれた史実は明治期の日本養蜂の解明になくてはならないものです。最新実利養蜂の経営」が出版された昭和7年以前にこの書があったら、「実験50年養蜂経営の実際」が出版された昭和25年以前にこの書があったら、渡邊寛の記述も別なものになっていたに違いありません。

 

 

 

内藤新宿試験場の西洋蜜蜂飼育試験について

 

 内務省に於いて西洋蜜蜂の飼育試験が始まったのは、市次郎が帰郷した翌年、すなわち明治10年です。「大日本農史今世」は明治の各年の内務省内の記録文書を編纂したものですが、その編纂の方法は年毎にまとめ、年を月ごとに、月の内は日付順に編纂しています。月はわかるが日付の不明な文書はその月の最終にまとめ“此の月”と頭につけています。その年の記録ではあるが、月がわからない文書は “此の年”と頭につけて12月の最後に編纂しています。明治10年の記録は最終日付は12月28日で、その後に“此の月“のついた文書が2つあり、その後に”此の年“のついたアメリカからイタリアン種を輸入し内藤新宿試験場にて飼育試験を行った記録が編纂されているのです。

 

 西洋蜜蜂の飼育は明治10年春から始まったと筆者は考えています。理由は以下のようです。

 

1)第1は内務省勧業寮の活動パターンです。内務省勧業寮の活動は年初めに決定が出、動き出すパターンが多いです。明治10年1月初めに、西洋蜜蜂輸が決議され、米国に手配。即、発送にかかったとしても、船便で最低30日程度は必要ですから、一番早くて到着は2月中旬、遅くても2月末には到着したのではないかと思います。

 

2)蜜蜂飼育者ならわかることですが、真夏の蜜蜂輸送には危険が伴います。蒸殺ということがあるからです。まして船便で1か月というのでは、生きて到着したら奇跡と言えるくらいのことです。ですから、真夏の輸送を避けたことは想像できます。飼育試験を始める時期ですが蜜源の花が咲き出し、蜜蜂が活動を始める春にスタートするというのは普通のやり方です。そうすれば、1年の飼育が系統的に順を追って体験できます。

 

 新宿試験場では下記のような適合試験が行われたものと思われます。

 

<気候、環境適合>

気候=夏熱く、冬寒く、梅雨期ある

夏は木陰なら全く問題なし。

冬は充満群で十分な貯蜜があるなら、内装備、外装備なしでも越冬出来る。

養蜂舎で飼育か?(――>顛末)

 

<病気、害虫適合>

天敵=スズメバチ、

ダニ被害や、スムシ、チョーク病は経験できたかもしれないが、ふそ病は発症せず未経験と思われます。

集蜜は多く、正確は温厚で、多産卵で大群となる。

 

<産業適合>

4-5月には分封し、自然増群でき、人口分封によれば、1年に1群は4-5群に増やせる。

多集蜜

 

<道具適合>

可動式巣枠飼育方式で内見、採蜜等の管理が便利。

各種養蜂器具の使用実験。

王蜂養成。

 

西洋蜜蜂と共に取り寄せた養蜂書  記述準備中

 

 

明治10年(1877)時点での海外の主な養蜂書(英語版)

 

ーー>解説準備中

 

・New Observations on the Natural History of Bees(Vol.1), 1806, by Francis Huber

・The Honey-Bee. Natural History, Physiology and Management,1827, Edward Bevan

・Humanity to Honey Bees, 1832, by Thomas Nutt

・A Manual or an Easy Method of Managing Bees, 1837, by John Weeks

・Aparian or the Management of Bees, 1840, W.W. Hall 

・Observations on the Natural History of Bees(Vol.2), 1841, by Francis Huber

・Bees Their Natural History and General Management, 1844, by Robert Huish

・The Hive and the Honey Bee,1848, H.D. Richardson

・A Description of the Bar-and-frame Hive, 1850, invented by W. Augustes Munn

・A Complete Guide to the Mystery and Management of Bees, 1852, by William White and James Beesley

・A Practical Treatise on the Hive and Honey-bee, 1853, by L.L. Langstroth

・Eddy on Bee-culture, and the Protective Bee-hive, 1854, by Henry Eddy

・Mysteries of Bee-keeping Explained, 1859, by M. Quinby

・Bees and Beekeeping a Plain, Practical Work, 1860, by W.C. Harbison

・A Key to Successful Bee-keeping, 1862, by Martin Metcalf

・Bee-keeping, by 'The Times' bee-master, 1864, John Cumming

・The Apiary or Bees, Bee-Hive and Bee Culture, 1865, Alfred Neighbour

・Mysteries of bee-keeping explained , 1866 

・British Bees. Natural History & Economy indigenous to British Isles, 1866, W.E. Shuckard 

・A New System of Bee-keeping, 1867, by D.L. Adair

・Essay on bee keeping , 1869

・A Manual of Bee-keeping, 1875, by John Hunter

・The ABC and XYZ of Bee Culture, 1877, A.I.Root

 

フランソワ・ユーべル&著書の写真 準備中

ジェルゾン&著書の写真 準備中

A Practical Treatise on the Hive and Honey-bee, 1853, by L.L. Langstrothの原書写真 準備中

ルート&グリーニングスの写真 準備中

デーダント&アメリカン・ビージャーナルの写真 準備中

A Manual of Bee-keeping, 1875, by John Hunterの原書写真 準備中

The ABC and XYZ of Bee Culture, 1877, A.I.Rootの原書写真 準備中

ルート商会のカタログ写真 掲載準備中

 

 

日本最初の西洋蜜蜂飼育ーその2ー

 

日本最初の西洋蜜蜂飼育その1をHPに掲載してから3~4年経過して、新たな史料をいくつも発見しました。新たな史料が見つかって驚いたことは、推測していたことの多くが当たっていたことです。その1を全面的に取り下げる必要は全くなく、裏付けされたり、補足されたり、新たな展開があったりしてさらに歴史の真実に近づくことになりました。ここに記述する、その2は、新たに発見した史料によって明らかになった事柄です。

 

 

明治9年の池田謙蔵派米について

 

明治10年に勧農局が米国から西洋蜜蜂を購入した前年の明治9年に、実は勧農局職員が渡米しているのです。大日本農史今世p191~192に以下のような記録があります。

 

勧業寮に於て寮員池田謙蔵の米国博覧会審査官となりて該地に赴くを以て金五千円を同人に委付して該国の農具を購入し且つ該国の南都を巡回して精米、綿作、養蚕、等の方法を調査せしむ。池田謙蔵手記

 

この記録から以下のような事柄が見えてきます。

 

あ)大日本農史今世は内務省勧農局の主な出来事の記録文書を時系列で編纂したものです。大日本農史は月毎の文書を日付け順に並べ、その月の出来事であるが日付の分からない文書あるいは出来事には、各月の最終日付けの文書の後に、「是月」を付けて編纂しています。上記の一節は明治9年の2月29日付けの文書の後に、「是月」を付けて編纂していますから、明治29年2月の出来事と確定できます。

 

い)勧農局は明治9年当時は勧業寮と呼ばれていました。明治10年から勧農局と名称変えがされました。

 

う)寮員池田謙蔵は明治8年に勧業寮に採用され、内藤新宿試験場の樹芸課に配属されていた技術官僚です。

 

え)元資料は「池田謙蔵手記」であるとしています。これは帰国後、勧農局長あて提出した派米復命書を指すものと考えられますが、この復命書は現段階では見つかっておりません。

 

しかし、明治園芸史(玉利喜造編、大正2年、1913)の中で、第二章「明治維新後に於ける園芸事業の発達」を池田謙蔵が執筆していて、以下のような蜜蜂に関する記述があります。

 

明治9年米国費府に立国百年祭の博覧会開設あり、本邦より審査官として三名の出張を請求あり、一名は養蚕業にして、一名は陶器業なり、余の一名は農業なれば其農業審査官として出張すべしとの内命あり、(中略)明治9年の春渡航せり、(中略)審査済の後三ヶ月間米国農業地視察の許可を得て居りし事とて、南北各地を巡回して米磨き器械を見分し、本邦に新製したりしは此時なり、(中略)是より前桑港高木領事(三郎君)に依頼して林檎苗弐百ドル、蜜蜂六箱を本邦に移したり、此の時ゴム樹も移したり、是れ本邦にゴム樹の移入せし初めにして (後略)(p13~14)

 

大日本農史の記録と明治園芸史の記述とを照合すると、明治9年2月に派米の命、3月に渡米、4月~9月までの6ヶ月間は米国立国百年祭博覧会で審査官として勤務、10月~12月までの3ヶ月間は米国農業地視察をしたことが分かります。米国農業地視察に先立ち、あるいはその途中で駐サンフランシスコ領事の高木三郎に、林檎苗、蜜蜂、ゴム樹の買い付けと日本への発送を依頼したと言うことになります。元々、買い付け品目の建議は勧農局でされていて、その多くは武田昌次の指定するものでした。蜜蜂については、貞市次郎のスカウトに見るように決定権をもっていました。ゴム樹については明治11年にもアメリカからの買い付け建議をしています。

 

領事が事案を受けて現地手配をして、すべての段取りが整うまで1ヶ月かかったとすると、発送は11月頃です。アメリカ商船の定期便が月1便と言うことを考え合わせると、全ての段取りが整い発送できたのは12月だったとも考えられます。12月の船だった場合、日本への輸送品だけでなく池田謙蔵本人も乗っていたはずです。「新宿御苑」(金井利彦、昭和55年、1980)にある“池田謙蔵がリンゴやゴムの苗木、蜜蜂まで持ち帰った“との記述は、これらを裏付けます。同船であるか否かは現段階では確定できていませんが、明治10年の年初には勧農局に蜜蜂が到着したことに間違いなさそうです。大日本農史が記述している明治10年の西洋蜜蜂の購求、飼育試験とつじつまが合います。

 

明治園芸史(玉利喜造編、大正2年、1913)の池田謙蔵の記述を元資料にしていると思われる西洋蜜蜂輸入に関する記述のある養蜂関係の著書には 「ハチミツの話」(原淳、昭和63年、1988)、 「洋蜂・和蜂」(原道徳、平成8年、1996)の2書があります。

 

「ニッポンミツバチとセイヨウミツバチ」(岡田一次、ミツバチ科学第7号2巻)にある“明治9年(1876年)に洋種が導入された・・・・”という記述も、明治園芸史(玉利喜造編、大正2年、1913)の池田謙蔵の記述を元資料にして明治9年の年末までには日本に到着したのではないかと言う意味と思われます。

 

 

勧農局年報第二回(勧農局編)の記録文書について

 

勧農局年報第二回(勧農局編)は明治10年の記録文書のテーマ別編纂書です。その15番目に 「蜜蜂の件」とあり、以下のような記録があります。

 

米国カリホルニヤ州にて購求したるイタリヤン種の蜜蜂は通常の蜂に比するに其形大にして採糖も亦大に勝れり。而して外国の蜂巣は枠を組て、之に巣を作らしめ、蜂、食用に供すべきものと、収穫に付すべきものとを区別し、多分に貧るの弊を防ぎ巣中虫害を閲するに便ならしめ、又、市に運搬するも頗る便利なるものとす。而して巣中の糖を振出し再び其巣を与れば蝋を以て巣を新造するの労を省く等、此れを我邦の旧慣法に比するに遥に勝れり、本年分巣する処のもの斯の如し。

 

元箱

分巣

米国カりホルニヤ州産

14

内国紀州産

 

勧農局年報第二回(勧農局編)によると、明治10年当初の西洋蜜蜂は4箱となっています。米国で買い付け、発送したのが6箱でしたから、2箱は死着だったと考えられます。勧農局の西洋蜜蜂の試験は4箱でスタートしました。この文書には以下のような試験結果が記述されています。

 

あ)イタリヤン種の蜜蜂は通常の蜂に比するに其形大にして:体形が大きい

 

い)採糖も亦大に勝れり:収蜜が多い

 

う)而して外国の蜂巣は枠を組て、之に巣を作らしめ、:巣枠に造巣させる

 

え)蜂、食用に供すべきものと、収穫に付すべきものとを区別し:隔王板を使って育児室と貯蜜室をわける

 

お)多分に貧るの弊を防ぎ:貯蜜室だけ採蜜し、育児室は採蜜しないの餌切れを防げる

 

か)巣中虫害を閲するに便ならしめ:内検が簡単にできる

 

き)又、市に運搬するも頗る便利なるものとす:簡単に運搬が出来る

 

)而して巣中の糖を振出し再び其巣を与れば蝋を以て巣を新造するの労を省く:遠心分離器で巣碑から蜜を離蜜するので、巣碑の破壊による再造巣の必要がなく蜂に労をかけない

 

け)等、此れを我邦の旧慣法に比するに遥に勝れリ:総合的に見て日本蜜蜂の従来飼育法に遥かに勝る。

 

こ)本年分巣する処のもの斯の如し:日本蜜蜂は2箱から4箱になったが、西洋蜜蜂は4箱から18箱になった。

 

 

これらの試験項目や試験結果は筆者が日本最初の西洋蜜蜂飼育ーその1-の「内藤新宿試験場の西洋蜜蜂飼育試験について」の項で推測したものとほぼ同じです。今回、勧農局年報第二回の「蜜蜂の件」の記録により、確定的にわかったことがあります。それは、日本蜜蜂と西洋蜜蜂の生態的比較試験がされただけでなく、飼育法も検証されたということです。上記の試験結果の あ)、い)の2点は生態あるいは種の特性に関することですが、う)~く)の6点は飼育方法のことです。このことから、和蜂と洋蜂の比較検証がされただけでなく、蜜市流飼育法とアメリカ式近代養蜂の比較検証がされたということです。 その結果、上記 け)にあるように総合的に見てアメリカ式近代養蜂は日本蜜蜂の従来飼育法に遥かに勝るとの結論に至っているのです。その飼育法の結果4群が18群にまで増えたと試験結果を報告しているのです。

 

筆者は種蜂屋をしていますので、蜜蜂を購入した人が一人前になるのがどれほど大変か、誰よりも知っています。初めてミツバチを飼う人の100人に90人は、1年後迄に蜜蜂を消滅させてしまいます。消滅させなかった人は、飼育方法が分かっていて無事だったと言うわけではなく、偶然だったり、運が良かっただけと言うのが現実です。ある意味、養蜂はそれ位難しいものです。

 

内藤新宿試験場の飼養試験が蜂群を消滅させることもなく、1年で4倍以上に繁殖させているのは驚きです。その要因には次のようなことが考えられます。

 

あ)蜂群が優秀だった。

日本へ初めて輸出する西洋蜜蜂と言うことで、現地では最高の蜂群を用意してくれた。特に女王蜂が新王で、産卵旺盛であったと考えられます。

 

い)新宿試験場での飼育開始時期が最適だった

明治10年の1月早々に到着し、養蜂舎で飼育開始し、1月~2月に給餌すれば奨励給餌となり、屋内飼育で巣箱内温度を高く保てますから蜂は増えます。3月末には分封が始まります。強群なら第2分封で2群捕獲出来、第4分封まで起これば、4群は18群にはなります。この時期の分封群なら夏までには、各群が立派な一人前の蜂群になります。

 

う)内藤新宿試験場には蜜蜂飼育経験者が何人もいた。

内藤新宿試験場は大勢の農夫を各地から雇い入れていました。専門家もスカウトしてきてました。蜜蜂に関して言えば、明治8年に和歌山県から貞市次郎を蜜蜂担当にスカウトしています。市次郎は明治9年12月に帰郷しましたが、一緒に飼育に携わった農夫たちが内藤新宿試験場に残っていました。この農夫たちが明治10年からの西洋蜜蜂試験に携わったことは疑う余地はありません。日本蜜蜂飼育の2年の経験は西洋蜜蜂飼育にも生きたはずです。全くの素人が西洋蜜蜂試験に携わったわけではないのです。

 

え)養蜂書が輸入されていて、それを見ながら進めた。

どの家畜でもそうですが、明治政府は家畜の輸入の際に、できる限りの参考書と道具類を買い集めています。ですから蜜蜂も例外ではありません。記録が遺失していますので、想像力を生かすしかありませんが、手掛かりはあります。

1870年代はアメリカでは蜜蜂の近代養蜂旋風が吹き、養蜂書の出版も盛んに行われていました。近代養蜂のバイブルとも言えるA Practical Treatise on the Hive and Honey-beeL.L. Langstroth1853)などの養蜂書が蜜蜂と一緒に勧農局に届いていて、これらを参考に飼育を進めたと考えられます。試験結果の う)~く)は 正に近代養蜂の飼育法そのものです。

 

お)武田昌次が西洋蜜蜂の飼育法を身に付けていた。

蜜市伝に次のような記述があります。

 

市次郎は父に従って経験した蜜蜂についての知識と技術を傾けて所謂蜜市流ともいうべき養蜂の研究と指導に没頭した。勿論この方面の技術官であった技師武田昌次などの新しく科学的な指導や示唆を受けて・・・・

 

ここには、武田昌次から“化学的な指導や示唆”を受けたと書かれています。武田昌次は語学堪能でしたから、海外の養蜂書を読み、それを市次郎や農夫たちに伝達したこともあったでしょうが、それ以上の実技上の指導をしたと読めます。

武田昌次は西洋蜜蜂飼育の経験があったことを裏付ける史料があります。実はこれは大発見なのですが、大日本農会報告第49号(明治18年、1885、7月号、P43)に武田昌次本人が次のように記述しています。

 

過般本会に寄付せし小笠原島二子山産の蜂蜜は去明治の初年小生が米国より持ち帰りし伊太利王蜂(イタリアン、クイン、ビー(Italin Queen Bee)を同島に移植養育し之より収穫せし醸蜜に係る・・・・・

 

「明治の初年」とは、明治元年を指す言葉ではなく“明治の初期の頃”と言う意味ですから、明治元年から明治5年位までを指しています。武田昌次が明治政府の官僚になったのは明治5年です。明治6年には英国出張、8年には清国出張、11年には印度、爪哇(じゃわ)に出張していますが、米国出張はありません。

 

明治政府に雇用される前はどうでしょうか。明治5年までは武田昌次は塚原昌義でした。塚原昌義は2度渡米経験があります。第1回目は幕府の外国奉行として遣米使節団の主要な一員として渡米。第2回目は鳥羽伏見の戦いで副総督として幕府軍を率いた責任を問われ、幕府からも明治新政府からも戦犯とされ、アメリカへ政治亡命をしています。この時の帰国は明治3年です。明治初年にイタリアン種女王蜂を持ち帰ったと言う時期はこれに合致します。政治亡命の詳細については本人の上申書があります。以下は静岡大学の橋本誠一教授による太政類典1編204巻64の活字化です。

 

奉申上候書付

                      私儀

去辰年三月中逼塞被仰付謹慎罷在候処厳譴ニモ可被処哉之趣風ト承込恐懼之アマリ不弁前後家出仕候処差向可罷越見当モ無之横浜表ニハ存候者モ有之候間彼地ヘ立越候兼テ懇意ノ亜墨利加人商人ユージンヘンイニ不斗面会致シ同人方ニ暫時罷在同人懇意之者医師ボーム帰国致候間一先彼地ヘ参候方可然哉之旨被相勧候間其意ニ任セ同年四月上旬(六日頃ト相覚申候)横浜出帆合衆国サンフランシスコ港ヘ著致シ右ボーム世話ヲ以同港内農業家ヘンリーステンセル大学校教頭ウイービードル鑽鑛器械製造方ウパーマ方等ニ逗留罷在遂ニ三十ヶ月之余ニ相成彼地著港以来モ御咎中出奔仕候段奉恐入何卒帰国之上御仁憐之御沙汰奉願度且暮故国慕敷旧冬横浜表ヘ帰著仕候処亜墨利加ミニストル儀者兼テ懇意ニ付申勧ニ任セ彼方ニ心ナラスモ消光罷在候得共出奔仕重罪之上尚潜没罷在心得違之段重々奉恐入候儀ト悔悟服罪仕此段藩庁ヘ自訴仕候尤外国ニ滞在中御国禁ニ関係候義ハ勿論御国辱ニ相成候所業仕候義毛頭無御座候右之通リ始末柄申上候次第聊相違無御坐候此段以書付奉申上候以上

  未五月          塚 原 昌 義 判

 静岡御藩

 御役人衆中様

 

この中で、サンフランシスコの農家、大学教授宅、器械メーカー社主宅などに30ヶ月滞在したと言っています。これは留学と言える内容です。先進国アメリカの農業、学問、工業などに直接触れ、多くを吸収する事になります。

 

筆者が特に注目していますのは、大農家に滞在していた時期の経験です。ここで、当然牧畜を経験し学んだはずです。1870年代には近代養蜂アメリカで大フィーバーとなっていましたから、その大旋風を肌で感じ、実際に蜜蜂飼育にも携わったと考えられるのです。サンフランシスコに滞在中、働かなくてはいけなかったわけですから農家の人手となって牧畜を手伝い、養蜂を手伝ったということは想像できます。武田昌次にとって、近代養蜂が一番興味深かったのではないかと思います。日本には居ない種類の蜜蜂、全く違う飼育方法、昆虫がアメリカの近代産業の中心になろうとしている事等々を経験して、日本の近代化や富国化にこれを役立てたいと思ったのに違いありません。

 

帰国時に、輸送籠に女王蜂と十数匹の働き蜂と餌を入れて、持ち帰ったのだと思います。蜂群はさすが逃亡の身では、持ち帰ることはできなかったと思います。この輸送籠で最長1か月は生存できます。今後の輸入に備えて輸送実験と言う意味があったのではないかと思います。 ーー>輸送籠の発明について準備中

 

この武田昌次が日本で初めての西洋蜜蜂飼育経験者であったことは間違いありません。このアメリカで経験があってこそ、内藤新宿試験場の飼育が驚くべき成功を収めたといえます。このように、複数の要因がうまくかみ合って満足のいく試験結果が出たのでした。明治8~9年は日本蜜蜂のみの試験を行い、10~11年は和・洋種の試験を行いました。11年中には試験の目的を果たし分配、払い下げ先の府県を決定、12年に払い下げを実施しました。試験場自体がその目的を終え、宮内省に管轄替えをすることになります。

 

大日本農史今世明治10年の章の”この年、勧農局においてアメリカよりイタリア国種のミツバチを購求し、これを新宿試験場に飼養し内外蜜蜂の得失を試験した。”という記述は、勧農局年報第二回の「蜜蜂の件」が元になっていると考えられます。勧農局文書として「蜜蜂の件」が記録されたのは明治10年~11年初め頃、勧農局年報第二回の中に収録され出版されたのは明治14年、これが大日本農史に引用されたのは明治24年ということになります。

 

 

遺失した記録(農務顛末第四巻十五蜜蜂)について

 

明治政府の農業政策を知る上で欠かせない資料は「大日本農史」と「農務顛末」です。日本農史は内務省勧農局で日々記録された種々の文書の中から、政策に関わる主な出来事を選び出し年次毎に編纂したものです。「農務顛末」は明治政府の農業政策の顛末を、勧農局内で日々記録された膨大な文書を整理し、カテゴリー別に、経緯、経過、結果、展望と言うように、その一部始終がわかるように

編纂したものです。原本は東京大学農学部に所蔵されていますが、1952年(昭和27年)に農林省が活字化し、刊行しました。資料6巻と目次1巻からなり、31篇に分けられています。

 

――>原本 写真準備中

――>原本の手書き頁 写真準備中

――>農林省版全6巻 写真準備中

 

蜜蜂も明治政府の農業振興政策の一つでしたから、数々の記録文書があるはずです。調べていくと、第4巻第15が「蜜蜂」です。しかし(欠本)となっています。「蜜蜂」以外にも(欠本)となっている篇があります。東京大学農学部の前身、東京農林学校の時代の洪水による損傷や戦火による内務省文書の焼失と言う悲劇がありましたから、蜜蜂に関する資料もその一つだったのかもしれません。

 

――>農務顛末 第4巻 写真準備中

――>同上   目次  写真準備中

 

無念です。第15「蜜蜂」には洋蜜蜂の輸入、内藤新宿試験場での飼育試験、各県への払い下げ、小笠原島への移出等の詳細が記述されていたはずなのです。他の編目の資料を考えると、「蜜蜂」も20~30通の記録文書があり、少なくとも100頁位の分量があったのではないかと思います。

 

今まで、養蜂の歴史研究においては、「農務顛末第四巻十五蜜蜂」と言う史料があったことも、それが遺失していることも知られていませんでした。養蜂の歴史は根拠となる確実な史料なしに、諸説が出現し、現在に至るまで混迷を極め、声の大きい者の説が定説となってしまいました。

 

しかし、有り難いことに、養蜂の歴史の解明につながる重要な手がかりが、他のカテゴリーの複数の史料の中に断片的ではありますが記述されていました。それらを精査し、時系列に並べたり照合したりして、かなりのことが分かってきました。史料と史料の隙間がありますが、養蜂家だからこそ見える世界や出来る推測がその隙間を埋めてくれます。

 

本研究は自分の養蜂の本当のルーツを知りたいと言う全く個人のこととしてスタートしたのですが、今は、自分自身を突き動かすものが少し変わりました。今、一番思うことは、歴史の当時の状況や当事者の実像を明らかにし、この方たちの心情や生き様を知り、知らせたいということです。養蜂の歴史の一場面一場面にはドラマがあり、感動があります。ここには現代の私たちが重ね合わせることのできる世界や思いがあります。

 

 

西洋蜜蜂の府県への分配と払い下げにつて

 

農務顛末第6巻第30小笠原島第42項に次のようにあります。

 

洋種牛及び蜜蜂移植の件  明治11年9月  武田昌次

一、意太利亞蜜蜂    弐箱

一、洋種牝トク(小牛) 弐

一、洋種牡トク(小牛) 壱

小笠原嶋着手に付は単に植物の業のみならず野花も有。之牧地も有之候。間、府縣貸與引当飼畜之分書面之通り。此度持越申度左候。得は、牛は兼て肥料の用に供し候。間、至極都合之義と存候。間、洋種牛之義は彼島にて外国人にて20頭も所持之者有之候処、格外之高価を申誇り候。間、内地より書面之通り先持越申度此段相伺候也  

 

(カタカナ書きをひらがな表記にしました。一部の旧漢字を現代漢字としました。句読点=筆者)

 

ここで、注目したいのは「府縣貸與引当飼畜之分書面之通り。」の一行です。武田昌次が小笠原島に赴任するに当たり、新宿試験場の蜜蜂他について府県に分配、払い下げの段取り済であると言っています。明治10年末時点で、日本蜜蜂4箱、西洋蜜蜂18箱でしたから、明治11年9月時点では、2-0~30箱程度に増えていたことが考えられます。武田昌次が小笠原島に2箱持ち出しても、残りは一府県に2箱づつ払い下げるとして十県程度に分配出来る計算になります。遺失した「農務顛末第四巻十五蜜蜂」にはこの辺のことが詳細に記録された文書が収録されていたはずです。府縣へ分配、払い下げについては農務顛末第5巻第3冊内藤新宿試験場第7節「試験場引継方の義に付宮内省へ御回答按伺」と言う文書にも「但当時飼養の蜜蜂弐箱を引継其他は府県に分配の積 」と記述されています。

 

蜜蜂の分配、払い下げは、おそらく運搬の関係もあって近県が優先されたのではないかと思います。数に限りがありますから分配に与らなかった県もありました。

 

明治13年2月4日付け岐阜県公文書に内務卿伊藤博文あての「蜜蜂巣御下渡し儀に付伺」と言う文書が保存されています。これは岐阜県にも蜜蜂1箱払い下げてくださいとの願い文書ですが、払い下げの段取りは明治11年9月に既に終わっており、翌年には分配が実行されました。国から蜜蜂を貰った県の話を聞いて、我が県もと願を出したのでしょうが、勧農局内藤新宿試験場は明治12年末に宮内省管轄となり、願いが出された明治13年2月時点では、勧農局に蜜蜂はいませんでした。

 

 

■宮内省に引き継がれた蜜蜂

 

農務顛末第5巻第3冊内藤新宿試験場第7節は「試験場引継方の義に付宮内省へ御回答按伺」と言う文書です。これは内務省から宮内省に管轄替えになるに当たり、引渡しする内藤新宿試験場の施設等の目録です。その目録の最後に以下のような蜜蜂関係の引き渡し品目リストがあります。明治12年5月9日付け文書です。

 

昆虫部

一、蜜蜂小屋  壱棟

一、虫室    壱ヶ所

一、駆虫草木園 壱ヶ所

但当時飼養の蜜蜂弐箱を引継其他は府県に分配の積

 

そして、明治12年5月19日付け文書には以下のようにあります。

 

蜜蜂は府県へ分配を見込み候得共、当分巣蜜の季節に運送難出来に付、当秋蟄居迄預置候事

 

明治12年5月9日付け文書にある「蜜蜂小屋」は採蜜所兼道具保管庫と思われます。「虫室」は養蜂舎を指すものと思われます。「駆虫草木園」とは蜜蜂の病気予防に栽培していたハーブ園や蜜源に渡栽培していたソバ畑を指すものと思われます。“蜜蜂は現在飼育しているものの中から2箱だけをを宮内省に引き渡します”となっています。そして、明治12年5月19日付け文書では、“宮内省に引き継ぐ2箱のほかは府県に分配します。ただ、5月の今は流蜜期で運搬できないので秋までこのまま置いてください。”と宮内省に申し出をしているのです。

 

内務省が農夫を大勢雇い入れていたように、宮内省内省が植物御苑を維持管理するためには大勢の農夫が必要です。事情を良く知る農夫たちが内務省解雇後、新たに宮内省に雇入れられたと考えられます。その中には養蜂練達者もいたと考えるのが自然です。蜜蜂そのものも、その飼育飼育も継承されたはずです。

 

ここに2つの古地図があります。

 

1枚目は「内藤新宿勧農局試験場内兼絵図」です。これは明治11年3月製で内務省勧農局内藤新宿試験場当時のものです。建物は記載されていません。

 

 

内藤新宿勧農局試験場内兼絵図 (宮内庁書陵部所蔵 、掲載準備中)

 

 

2枚目は「植物御苑建物図録」です。これは製作年が不詳なのですが、題目が「植物御苑建物図録」となっていることから、明治12年~明治19年の図と言うことになります。なぜなら、植物御苑は内務省から管轄替えになった明治12年から「新宿御料地」と改称になる明治19年までの名称だからです。

 

 

 

植物御苑建物図録 (宮内庁書陵部所蔵 、掲載準備中)

 

この地図で注目すべきは鴨池です。鴨池は明治13年に造られました。ですから、この地図に鴨池が載っていると言うことは、明治13年以降の製ということになります。これらの点から、この地図は内務省勧管轄から宮内省管轄になってからのもので、明治13年~明治19年までの間の製である事は間違いありません。

 

この地図に、内務省から引き継いだ建物と名前が記載されています。これらの建物は農務顛末第5巻第3冊内藤新宿試験場第7節「試験場引継方の義に付宮内省へ御回答按伺」に記載されている内務省からの引き継ぎ物件です。引き継ぎ物件の一つである蜜蜂小屋壱棟、虫室壱ヶ所、駆虫草木園壱ヶ所 はあるでしょうか。

 

あります! 勧農局では「蜜蜂小屋」という呼び名でしたが、宮内省管轄になってからは「蜂蜜製所」と呼ばれています。ここで採れた蜂蜜が皇室へ供せられていたと考えられます。もっと遡れば、明治9年頃に皇后が蜜蜂の視察に訪れたとの伝承もあります。

 

植物御苑は明治19年以降は新宿御料地として皇室へ供する野菜を栽培をするのが役目となりました。その意味でも蜂蜜製所と言う呼び名はまさに実態に即しています。勧農局から引き継いだ蜜蜂2箱は、その後も元気に蜜を集め皇室の食卓へ供せられていたとしたら、うれしいことです。蜜蜂は皇居内で皇族方によっても飼育されていたという話もあります。これは現段階では伝承に過ぎませんが、いつの日にか、これらを裏付ける史料が発見されるかも知れません植物御苑建物図録の建物名から、明治13年以降も植物御苑では引き続き西洋蜜蜂が飼育されていたと結論できます。

 

 

2019年1月31日に歴史の痕跡を確認するために新宿御苑を訪れました。

 

     勧農局内藤新宿試験場庁舎跡

勧農局内藤新宿試験場庁舎跡は現在の大木戸休憩所辺りです。ここで、大久保利通率いる内務省の頭脳が日本の農業政策を推進していました。富岡製糸場、学農社、大日本農会、帝国大学農学部などは全て勧農局の人材ネットワークで展開していきます。

 

 

         農業学校跡

 

農学校跡は現在の菊栽培所の南入口を入った辺りです。明治10年に内務省勧農局内藤新宿試験場内に本格的な農学校が設立され、獣医学、農学、農芸化学、農学予科が置かれました。この農学科に学んでいた一人が玉利喜造です。明治11年に農学校は駒場に移転しましたが、それまでの2年間、玉利喜造は武田昌次と蜜蜂がいる内藤新宿試験場内に寄宿していました。

 

 

        蜜蜂の飼育場所跡 

 

西洋蜜蜂飼育場所跡は現在の擬木橋近くの300平米ほどの、なだらかな斜面です。内藤新宿試験場の全体から見ますと、庁舎から比較的近く、一番隅で南方向に余白地が開け、巣箱前を人が通行しないような場所と見て取れます。現在整形式庭園のある所が内務省管轄時期に「駆虫草木園」と呼ばれていたハーブやソバなどの蜜源植物栽培畑と思われます。ここで飼育していた蜜蜂は明治11年11月に小笠原島に2箱、明治12年秋に、20箱程度が府県に払い下げとなり、「植物御苑」には2箱だけが残されました。

 

 

徳田義信著蜜蜂第一巻の記述 準備中

渡邉寛のもう一つの異説につて 準備中