5)小笠原島のコーヒー移植


 養蜂の歴史の話を読み進んで来たら、急にコーヒーの話になって ”あれ?”と思われた方がいらっしゃるかと思います。実は日本の西洋蜜蜂の歴史は中芳男と武田昌次のネットワークと、もう一つ、小笠原島の殖産開発という事情の中で展開していきます。小笠原島の殖産事業の開発、そのひとつがコーヒー移植でした。ですから、ここで小笠原島のコーヒー移植に触れないわけにはいかないのですが、場合によっては、本項をとばして次の「西洋蜜蜂の小笠原島移入」に進まれても大丈夫です。

 

  内務省書記官であり植物博士であった田中芳男は小笠原島でコーヒー、キナなどの亜熱帯有用植物の植育をめざしていました。田中芳男はコーヒー等の苗木を大量に買い付けることを建議し、小笠原島の殖産事業を推進しました。担当したのは語学堪能な内務省技官武田昌次です。小笠原島でのコーヒー栽培には二つの理由がありました。

 

コーヒーは当初、日本人の口には合わないとの印象でしたが、欧米文化の浸透が進むにつれて輸入量が増え、出費を何とか食い止めることが急務でした。それは国内生産と言う解決策でした。当時のコーヒー輸入量は年間約46トンにもなっていたとのことです。(―>日本コーヒー史、p109)

 

もう一つの理由は、小笠原島が日本に正式に帰属したことによる、亜熱帯の小笠原島の殖産事業の開発と言う課題でした。小笠原島は内務省の直轄でした。

 

 以下では、上述のような事情の中で始まった小笠原島でのコーヒー栽培の歴史を詳しく見ていきます。小笠原島のコーヒーの歴史がわかると、養蜂の歴史がより深くわかります。

 

 

最初の苗木取り寄せと日本適合試験

 

  諸外国の動植物の日本適合試験を行っていた内務省勧業寮で、明治8年6月にナとコーヒーの種苗取り寄せの方針を決定し、外務大臣にオランダ公使への依頼を要請しました。勧業寮とは現代風に言えば産業振興局です。大久保利通率いる内務省内の勧業寮は農業主体でした。和蘭公使及び香港領事に幾那樹苗取寄方依頼の件と言う文書が残っています。

 

 オランダ領ジャワで栽培しているキナとコーヒーについて、右は最緊急の植物であるので、わが国に繁殖させて海外より輸入をしないで済むように、それにはまず風土試験のため、両樹の苗木を各500本ずつ取り寄せ、琉球その他西南の所に分けて栽培し・・・・・・・・ 

(和蘭公使及び香港領事に幾那樹苗取寄方依頼の件より抜粋)

 

 内務省書記官であり植物博士であった田中芳男がその賢智から勧業寮の方針を固めたものと考えられます。キナとコーヒーの取り寄せは日本適合試験のためでした。明治新政府は内務省に勧業寮を作り、ここが外国から家畜や外国の植物を取り寄せ日本適合試験を行い、その後全国に頒布するという政策を推進していました。植物に関しては作物が優先されましたが、植物学者である田中芳男は特に熱帯、亜熱帯植物の日本導入に熱心でした。小花作助著の小笠原島要録に記載された小笠原島に移植された亜熱帯植物のリストを見るとその数何百種になるものと思われます。今回オランダから政府レベルで取り寄せるキナとコーヒーも当初より日本適合試験を経て小笠原島で本格栽培に移行する計画があったと考えられます。

 

上記依頼書には小笠原島が出ていません。この要請は、小笠原島が日本領土であることが正式に認められる前の時期でした。対外国要請文書の元となる政府内文書でも慎重を期したものと考えられます。小笠原島が日本領土であることが正式に認められたのは本要請の翌年の明治9年(1876)でした。

 

 大日本農史今世p178とp179に以下のようにあります。

 

 明治8年10月8日外務省4等出仕田邊太一、租税権助林正明等を遣わし小笠原島を視察せしむ。大日本農史今世p178)

 

 明治8年10月、内務省爪哇所産の幾那及び珈琲を移植せんと欲し種苗の送致を和蘭国公使に依頼す是に至て珈琲の種苗を送致す尋て之を琉球に移植せしむ。内務中録河原田盛美其の事を担当せり。(大日本農史今世p179)

 

 コーヒー樹はアフリカ原産ですが、オランダ政府はアムステルダムの試験農場で繁殖に成功しました。当時オランダは世界の大国で、全世界に植民地を拡大していました。その一つであるジャワでコーヒー栽培を大々的に手掛けていたのです。

 

コーヒー苗木の方は明治8年10月に駐日オランダ公使より、コーヒー苗一箱(モカ・べサル,ケレーネ・モカなど9種類のコーヒー苗木)とコーヒー種子コーヒー日除け用樹木の種子、コーヒー植え付け方の書1冊、コーヒー培養書1冊が勧農局に提供されました。(―>文献:小笠原島要録

 

これらは上掲のように内務中録河原田盛美によって琉球に移植されましたが、新宿試験場や小笠原島で栽培試験をしたと取れる記述が田中芳男の書簡にあります。(-->小笠原島要録第3編 項)

 

キナとコーヒーの分与要請に応じて明治9年4月、オランダ領ジャワ島からキナの苗42本が英国郵便船で横浜に到着しました。そのキナの苗は内務省から小笠原出張所に輸送されました。(―>農務顛末大六巻第30小笠原出張所、9年12月1日付け 小花作助から田中芳男あて到着の書面が小笠原島要録第二篇6項にあり)。 しかし、1年足らずの間に、すべて枯死してしまいました。(―>農務顛末M10,4 M11,2,5 

 

 

田中芳男の建議

 

 日本の西洋化はどんどん進みコーヒー需要も拡大し、輸入に代わる国内生産が急務とされていました。このような事情もあって、約2年の有用則物の日本適合試験を経て、明治11年(1878)1月に内務省勧農局の田中芳男はコーヒーやキナなどの亜熱帯有用植物4種の苗木を大量に買い付け小笠原島に移植することを建議しました。建議とは意見の申し立てです。建議書は現代風に言えば企画書です。その事情は先に記述したように2つありました。輸入金額の拡大対策と小笠原島の殖産開発でした。4種の有用植物とはキナ樹、コチニール、エラスチックゴム樹、コーヒー樹でした。――>説明 コーヒーに関しては、田中芳男本人が内務省小笠原島責任者の小花作助にあてた書簡に以下のような記述があります。

 

 珈琲樹は実の核仁を以て飲料に供す。近年西洋風の食事開くるに随い需要又次第に多く、輸入を増進するに至る。この苗も既に試植の処、成育宜しきを以て成木せしめたく。・・・・  (小笠原島要録第3編45項)

 

明治年に内務省勧業寮は勧農局と名称が変わりました。現代風に言えば“農業振興局”です。田中芳男は小笠原島を太平洋航路の中継地構想をもっていました。小笠原をハワイに勝る通商の拠点に育てたいと考えていました。 (――>小笠原島要録第3編45項)

 

 インターネット上に小笠原島のコーヒー事業が榎本武揚の建議だったという誤った記事がいくつもあります。出どころはある一つのホームページですが、その記述内容の検証されることなしに次々に孫引きされていると思われます。ここで、小笠原島のコーヒー事業は田中芳男の建議により始まったという史実を歴史文献から確認しておきたいと思います。

 

 是月(明治11年3月)、内務省において等属武田昌次を印度、爪哇に遣わし小笠原島に移植すべき幾那、珈琲等の植物を調査購入せしむ。(勧農局沿革録同第3回年報、M11)

 

 珈琲は明治11年(1878)1月、内務権大書記官田中芳男の建議に出て地植物を小笠原島に移植、栽培繁殖すべき趣旨を以て、内務1等官武田昌次を印度、爪哇に派して、帰朝の後これをかの地に移植せしめ、勧農出張所を置きてこれが培育を担当せしめたり。(農商務省農業報告第21号、M16

 

 明治11年10月7日勧農局出張所を父島北袋沢に設く。是より先内務権大書記官田中芳雄男の建議に因り暖地植物を島地に試植銭為一等属武田昌次を印度爪哇等に派遣し暖地数種の植物を携帯せしめここにこれ着手に及べり。(小笠原島要覧、1888(M21)、磯村貞吉著、p113)

 

 珈琲 この種は明治11年内務権大書記官田中芳雄男氏暖地植物を本島に移植藩生せしむることを建議せしを以て同省一等属武田昌次氏を印度布哇派遣し暖地植物数種を購求し・・・・

(小笠原島誌算、1888(M21) 東京府小笠原庁編、p363)

 

 珈琲 この種は明治11年田中芳男の建議により武田昌次を布哇爪哇印度の各地に派遣し熱帯植物を採収せしめし際同12年に移植せしもの~ (小笠原島志1906(M39) 山方石之助著小花作助閲?p597)

 

 内務権大書記官田中芳男の建議によって、暖地植物の試植を為さんがために、一等属武田昌次を爪哇方面に派し、珈琲、護謨(ごむ)等の栽培のことに当たらしめた。     (小笠原島総覧、1929(S4)東京府編、p21)

 

 

武田昌次の買い付け

 

 田中芳男の建議による小笠原島での有用植物試験について、勧農局沿革録同第3回年報、M11に以下のような記録があります。

 

 是月、内務省において一等属武田昌次を印度(インド)、爪哇(ジャワ)に遣わし小笠原島に移植すべき幾那(キナ)、珈琲(コーヒー)等の植物を調査購入せしむ。  (大日本農史1891年(M24)内務省農政局編p260~261)

 

“是月” 

 明治11年の勧農局沿革録同第3回年報記載であることと、大日本農史1891年(M24)内務省農政局編p260~261の収録の前後関係から明治11年3月であるとわかります。

 

“内務省において”

 明治8年にオランダ公使に依頼したキナとコーヒーの苗木は各500品ずつでしたが、実際に到着したのはキナ苗木42本と同数程度のコーヒー種苗でした。今回は田中芳男

が立ち上がり、内務省勧農局が本腰で取り組む方針です。

 

“一等属武田昌次を”

 コーヒーの小笠原島栽培の買い付け責任者を命じられたのが武田昌次でした。武田昌次は語学堪能な内務省技官であり田中芳男の右腕でした。

 

“印度、爪哇に遣わし”

 オランダ領です。ーー>詳細準備中

 

“小笠原島に移植すべき”

 内務省直轄の開拓事業でした。ーー>詳細準備中

 

“幾那(キナ)、珈琲(コーヒー)等の植物を調査購入せしむ”

 小笠原島要録第3編45“小笠原島へ有用植物栽培着手の儀伺”によると 有用植物とはキナ樹、コチニール、エラスチックゴム樹、コーヒー樹の4種でした。

 

 小笠原島関係の歴史書の記述には微妙に違いがありますから、対照してみます。小笠原島要覧と小笠原島誌算の2誌は大日本農史出版のM24年より前の著書ですから、参考資料となったのは 勧農局沿革録同第3回年報M11分と農務省農事報告第21号と思われます。又、小笠原島要覧と小笠原島誌算は同年の出版ですから互いの参照はなかったと断定できます。M39年出版の小笠原島志は勧農局沿革録同第3回年報M11分と農務省農事報告第21号及び大日本農史と小笠原島要覧と小笠原島誌算を参考できました。S4年出版の小笠原島総覧は勧農局沿革録同第3回年報、M11分と農務省農事報告第21号及び大日本農史と小笠原島要覧と小笠原島誌算と小笠原島志を参考可能でした。

 

これらの関係を表にすると以下のようになります。

 

勧農局沿革録同第3回年報、M11

 

農務省農事報告第21号

1883(M16)

小笠原島要覧

1888(M21)

磯村貞吉著

小花作助選

p113

小笠原島誌算

1888(M21)

東京府小笠原庁編

p363

小笠原島志

1906(M39)

山方石之助著

小花作助閲?

p597

小笠原島総覧

1929(S4)

東京府編

p21

 

―――――――

参考可能な文献

―――――――

勧農局沿革録同第3回年報、M11分 

 

農務省農事報告第21号

1883(M16)

 

参考可能な文献

―――――――

勧農局沿革録同第3回年報、M11分 

 

農務省農事報告第21号

1883(M16)

 

参考可能な文献

―――――――

勧農局沿革録同第3回年報、M11分 

 

農務省農事報告第21号

1883(M16)

 

大日本農史

 

小笠原島要覧

小笠原島誌算

 

参考可能な文献

―――――――

勧農局沿革録同第3回年報、M11分 

 

農務省農事報告第21号

1883(M16)

 

大日本農史

 

小笠原島要覧

小笠原島誌算

小笠原島志

 

 

 

<時期の検証>

 

勧農局沿革録同第3回年報、M11

小笠原島要覧

1888(M21)

磯村貞吉著

小花作助選

p113

小笠原島誌算

1888(M21)

東京府小笠原庁編

p363

小笠原島志

1906(M39)

山方石之助著

小花作助閲?

p597

小笠原島総覧

1929(S4)

東京府編

p21

是月、内務省において一等属武田昌次を印度、爪哇に遣わし小笠原島に移植すべき幾那、珈琲等の植物を調査購入せしむ。

 

―――――――

農務省農事報告第21号

1883(M16)

p39~44

―――――――

珈琲は明治11年1月、内務権大書記官田中芳男の建議に出て暖地植物を小笠原島に移栽繁殖すべき趣旨を以て内務1等属武田昌次を印度爪哇に派して帰朝の後之を此地に移植せしめ勧農局出張所を置きて之が培育を担当せしめたり。

 

明治11年10月7日勧農局出張所を父島北袋沢に設く。是より先内務権大書期間田中芳雄男の建議に因り暖地植物を島地に試植せんため一等属武田昌次を印度爪哇等に派遣し暖地数種の植物を携帯せしめここに着手に及べり。

 

小笠原島物産略誌

1888(M21)

p12

―――――――

珈琲これは武田昌次氏が熱帯地方より移せしものにして棚挽山に多し。

 

珈琲 この種は明治11年内務権大書記官田中芳雄男氏暖地植物を本島に移植藩生せしむることを建議せしを以て同省一等属武田昌次氏を印度布哇に派遣し暖地植物数種を購求し斎し帰りてここに移植せしめ勧農局出張所を起きてこの培育を任せしむ。

珈琲 この種は明治11年田中芳男の建議により武田昌次を布哇爪哇印度の各地に派遣し熱帯植物を採収せしめし際同12年に移植せしものにして・・・・

内務権大書記官田中芳男の建議によって、暖地植物の試植を為さんがために、一等属武田昌次を爪哇方面に派し、珈琲、護謨等の栽培のことに当たらしめた。

 

 内務省文書の勧農局沿革録同第3回年報が明治11年記載であることと、大日本農史のp260~261に収録された“明治11年勧農局沿革録同第3回年報”の前後関係からその時期は明治11年3月と特定できます。小笠原島要覧、小笠原島誌算、小笠原島志の3誌とも明治11年と記述しています。小笠原島総覧は特に時期は記述していませんが、食い違いがあるわけではありません。整理しますと明治11年1月に田中芳男の建議、同年3月に武田昌次を買い付けのために派遣と確定できます。

 

 

<方面の検証>

 

勧農局沿革録同第3回年報、M11

―――――――

勧農局沿革録同第3回年報、M11

小笠原島要覧

1888(M21)

磯村貞吉著

小花作助選

p113

小笠原島誌算

1888(M21)

東京府小笠原庁編

p363

小笠原島志

1906(M39)

山方石之助著

小花作助閲?

p597

小笠原島総覧

1929(S4)

東京府編

p21

印度

爪哇

印度

爪哇等

印度

布哇

印度

布哇

爪哇

爪哇方面

 

 

 

 まず読み方ですが、地名及び植物名は以下のようになります。

印度=インド

爪哇=ジャワ

布哇=ハワイ

幾那=キナ

珈琲=コーヒー

護謨=ゴム

 

方面に関してはいくらか食い違いがあります。小笠原島誌算と小笠原島志には布哇(ハワイ)があるのです。これに関しては以下のように考えられます。

 

あ) 内務省文書に布哇(ハワイ)に派遣した記述はありません。

 

い) 印度(印度)、爪哇(ジャワ)方面とは懸け離れた太平洋上のハワイに明治11年に派遣は事実上不可能。武田昌次の11年の業務経歴からもその論は無理です。

 

う)小笠原島誌算を編纂した東京府職員が 勧農局沿革録同第3回年報、M11分を参

考、書き写し時に、爪哇の “爪“ を ”布“と誤読あるいは誤写した。両文字は崩し

字ですと縦線と斜め線で似たようになります。

 

え)小笠原島志の著者山方石之助は各文献を参考したが小笠原島誌算にある“布哇“を

えたものと考えられます。

 

お)小笠原島要覧の著者磯村貞吉は唯一の参考文献勧農局沿革録同第3回年報、M11分

を忠実に書き移したものと思われます。

 

か)一番後で出版された小笠原島総覧は”布哇”を排除してインド・ジャワを“爪哇方面”ひとくくりにしています。

 

 武田昌次はインド、爪哇(ジャワ)出張に出る前に、米国のカルフォルニアから千円で、ゴムノキの苗木千本、オリーブの苗木千本の購入を申請しています。その理由は、インド・ジャワのゴムノキ、オリーブの木の大半は米国のカルフォルニアから購入して移植したものなので、カルフォルニアからの購入には、購入費・輸送費の面からメリットがあるというものでした。この申請はゴム苗木500本、オリーブ苗木500本で運送費・雑費込み千円で局長決済となりました。 (農務顛末第六巻p466、17カリフォルニア地方より苗木購入の件)

 

 しかし、ここにはコーヒーの苗木は含まれていません。農務顛末には、武田昌次の布哇(ハワイ)への出張や、布哇(ハワイ)からコーヒーの苗木を輸入した記録は何もありません。布哇(ハワイ)のコーヒーはジャワから移植したものです。今回武田昌次が直接ジャワにて購入するのですから、布哇(ハワイ)から輸入する必要性も何のメリットもないことは明白です。

 

 以上の考察から布哇(ハワイ)への派遣、買い付けという記述は間違いであると断言できます。

 

 

<買い付け品目の検証>

 

勧農局沿革録同第3回年報、M11

 

小笠原島要覧

1888(M21)

磯村貞吉著

小花作助選

p113

小笠原島誌算

1888(M21)

東京府小笠原庁編

p363

小笠原島志

1906(M39)

山方石之助著

小花作助閲?

p597

小笠原島総覧

1929(S4)

東京府編

p21

幾那

珈琲

等の植物

 

 

暖地数種の植物

 

 

暖地植物数

 

 

熱帯植物を

珈琲

 

 

護謨等

 

  買い付け品目に食い違いはありませんが、小笠原島総覧では護謨(ゴム)が取り上げられています。小花作助の小笠原島要録の閲覧が可能だったからだと思います。

 

小笠原島要録第3編45“小笠原島へ有用植物栽培着手の儀伺”によると 有用植物とはキナ樹、コチニール、エラスチックゴム樹、コーヒー樹の4種でした。

 

 

<輸送手段の検証>

 

 インターネット上に、田中昌次がコーヒー苗を持ち帰って小笠原島に移植したと記述しているブログ記事があります。これは珈琲博物誌、伊藤博、八坂書房、1993、p214“勧農局の武田昌次がジャワより持ち帰ったコーヒーの苗木を小笠原島の袋沢に移植した・・・”との記述の孫引きと思われますが、その元々の出処は磯村貞吉の小笠原島要覧の下記の一節です。

武田昌次を印度爪哇等に派遣し暖地数種の植物を携帯せしめここに着手に及べり。 (磯村貞吉の小笠原島要覧1888(M21)p113)  

 

ですが、武田昌次の買い付けは、手で持って帰れるような小規模なものではありませんでした。

 

 勧農局にてキナ、珈琲2木の苗を植えんと欲し、武田昌次をして印度、ジャワ両地に至らしめてこれを購得し、小笠原南海、西海各所に植えしむる事各500株なり。  (明治事物起源の明治12年(1879)の項)

 

 

 ジャワにて苗木500本と種子45kg買い付け

インド・セイロンは同地での病害発生により中止

購入契約ありーー>

 

・1便発送、2便発送手配し帰国――>農史?

・明治11年6月:買い付け品を日本に発送(――>大日本農史今世p271)

・明治11年8月13日 インド、ジャワから帰国(――>大日本農史今世p275)

 

 

武田昌次のコーヒー移植

 

 内務省勧農局では外国の家畜や作物の種、苗を取り寄せ日本適合試験を重ね、それを日本全国に頒布する政策をとっていました。薬用植物やコーヒーもその路線上にありました。武田昌次による小笠原島でのコーヒー移植を時系列に整理しますと、以下のようになります。

 

○ 小笠原島出張所開設、小花作助所長に就任

○ 小花作助、明治9年12月27日太平丸で来島

○ 明治11年(1878)1月に内務省勧農局の田中芳男がコーヒーやキナなどの亜熱帯有用植物4種の苗木を大量に買い付け小笠原島に移植することを建議。

○ 内務省勧農局小笠原島出張所新設。武田昌次に3月長赴任の命。

○ 同月渡島予定の処、印度、爪哇方面に買い付けの命。

 

 小笠原島要録第3編45“小笠原島へ有用植物栽培着手の儀伺”に武田昌次から小花作助に宛てた書簡が転載されています。

 

 局長(田中芳男)の書面の通り、私議小笠原島へ諸植物移植取り調係りを申つかりに付け、当月3月御地へ伺うはずのところ、キナ、コーヒー樹買い入れ方として印度地爪哇島へ派出を命じられに付け今回はでかけられなくなりました。7月便にて渡島出来るものと思っております。・・・・   (小笠原島要録、小花作助著小笠 原島要録第3編47筆者私訳)

 

○ 買い付け品の発送

○ 明治10年8月5日、武田昌次帰国

○ 明治11年11月5日、武田昌次が長男や農夫らを伴い来島。

 

 当時の新聞記事に以下のようにあります。

 

 小笠原島へキナ、コーヒー苗植え付けのため、勧業局の一等属武田昌次君が農夫10名頭取世話役1名および農具、苗木等を積み載せ、来る10月1日、該島へ発船さるる趣き、また該島の袋沢という所に、勧農局農事務所を設け、武田君および直井真澄君の官宅2棟をその側に建設し、武田君到着のうえは、万事を主任さるる由。  (11年10月16日付け郵便報知新聞)

 

明治11年10月16日記事ですが内容は“来る10月1日該島へ発船さるる趣き”となっていますので、9月中に書いた記事であるとわかります。内容の詳細さからみて、原情報は内務省からのプレスリリースによるものと思われます。

 

 内務省文書として、小花作助の小笠原島要録に武田昌次の来島の詳細記録があり、明治11年11月5日郵船社寮丸にて來島。同行者は以下のようです。

 

長男:重吉

勧農局農夫小頭:長谷川義蔵

農夫:三宅直廉、菊池元蔵、柳生久丘、浮田直之助、金子金蔵、佐藤福吉、奥山文吉、沖山新兵衛、浅沼助蔵、

勧農局小使:渡邊勇三郎

武田昌次随行:堀井延吉、菊池勝太郎  (小花作助著小笠原島要録第3,146項)

 

 

 武田昌次による小笠原島へのコーヒー移植について、武田昌次本人による記述が残っていました。農務顛末第六巻に収録されています。これにより、武田昌次による小笠原島へのコーヒー移植については上述と食い違いはなく確定できます。

 

明治十一年一月四日、内務権大書記官田中芳男より小笠原島江暖帯産有用植物等を移植し勧農局にて担任候は可然云々の議案上申。

 

同月十四日、前議案に決済あり。

 

同月十六日、東京府下平民武田昌次を内務一等属に命じ、以上の事務に担当せしむ。

 

同月二十二日、右同人を爪哇印度江派出して幾那珈琲等の苗木種子購求すべき旨下命ありて三月四日爪哇地江向けて出発す。

 

三月四日、コセニールの餌食とすべき覇王樹を予め小笠原島植置為に勧農局試験場農夫一人保坂常二郎を小笠原在勤農夫となし、覇王樹苗木を携帯せしめ該島へ出発せしむ。

 

七月六日、武田昌次いまだ印度地方より帰京なく、依って小笠原島へ予め建築をなすべき為並に武田昌次爪哇地方より五月中に送付せし珈琲苗木種子及び熱帯産菓木並に用材の苗木種子を栽植する為に勧農局御用掛三重県士族服部五十二勧農局雇大野優蔵直井真澄及び農夫二人水川豊太郎川口春堂へ小笠原島在勤を命じ本日を以て出帆す。

 

八月十三日、武田昌次印度より帰京す。

 

九月十二日、農夫水川豊太郎小笠原島に於て病死す。

 

十一月一日、武田昌次農夫小頭長谷川美龍農夫9人三宅直廉、金子金蔵、菊池元蔵、柳生文兵、浮田直之助、佐藤福吉、奥山文吉、沖山新兵衛、浅沼助蔵、小遣一人渡辺勇三郎と共に諸苗木種子農具其外器具を齎し、本日を以て横濱出帆し五日小笠原へ着す。

 

十一月五日、雇直井真澄内務十等属を命ぜられ該島在勤の命あり。

 

同月八日、服部五十二大野優蔵は東京被命農夫一人川口春堂病気にて共に本日を以て小笠原島を出帆す。

 

農務顛末第六巻、p511~512、45出張所着手場明治11年1覧表付録、明治12年3月。 カタカナ書きをひらがな表記にしました。一部の旧漢字を現代漢字あるいはカタカナとしました。〇と句読点=筆者)

 

 

 武田昌次は明治12年7月に一時帰京、明治12年12月5日に青龍丸にて帰島。同行者は以下のようです。

 

妻:ヨネ

長男:重吉 

二男:要吉

長女:きふ

下卑:小宮さと 

内務省勧農局農夫小頭:内藤清風

一等農夫:中尾寿一、松崎伝七

雇農夫:14名

 

 

成果と波及

 

 小笠原島開発の進捗状況のなかで特に珈琲栽培は感心も強く新聞にもたびたび取り上げられています。明治11年の買い付け後の様子を下記のように伝えています。

 

 かねて小笠原島へ試植せられし珈琲は、風雨のため大いに被害をうけたけれど、50本ほどはこのところ全く生長して、もはや実を結びたりとのことなり。 (明治15年2月22日付け東京日日新聞)

 

 去る明治11年中、内務省より使員を印度、爪哇に派遣して珈琲種苗若干を得、これを小笠原島に移植し、また12年に種子を潘下し、翌年春移植せしに、生長最も宜しく、14年は花を着け、少しばかりの結実あり、15年に至っては採収せしもの3貫目許を容るる函4箇に盛れりと。現今存生の樹数およそ4万本なり。近来東京府庁はその保護、培養に意を用い、たとい外国に輸出するの多きを致すあたわざるも、内地の需要を充たさんと予期さるるよし。 (明治17年4月29日付け郵便報知新聞)

 

 小笠原島の珈琲移植の経過については内務省文書や明治期の小笠原島を記録した歴史書に言及があります。

 

農務省農事報告第21号

1883(M16)

p39~44

小笠原島物産略誌

1888(M21)

p12

 

小笠原島要覧

1888(M21)

磯村貞吉著

小花作助選

p211~

小笠原島誌算

1888(M21)

東京府小笠原庁編

p363~4

小笠原島志

1906(M39)

山方石之助著

小花作助閲?

p597

 

然れども他の植物及び・・虫の如きは概ね土地に応せずして中廃したれども独り珈琲と弾力ゴムの木は能く適応し将来一産物とも成るべき景況なり。

(中略)

 

15年に至りては、結果甚だ多く、此の秋収穫せし実の皮をさりたる者、3貫目余りの箱4個を、本庁に送致せり。これをいりて泡出せしものを飲み試むるに、粗製なるを以て香味少しく劣るといえども、頗る佳なり。横浜の時価を問うに、1斤(16匁)二十銭なるは、必ず販路あるべし。

 

 

珈琲これは武田昌次氏が熱帯地方より移せしものにして棚挽山に多し。よく結果なれども此頃殆ど放棄したる有様なり実に惜しむべきなら。

 

 

 

本島の地味風土に能く適応し将来一物産とも成るべき景況なり。是始め爪哇より苗にて移せしものを露天の地に植えしに生育生育宜しからざりしが棚挽山陰窮の地に移植せしものは是発生力甚だ宜しかりしという。

 

この内土地に適応せずして萎縮したる種類あれよ、独り珈琲と弾力ゴム樹は能く地味に合し生殖せり。

これを始め布哇(正は爪哇)より苗にして齋し来る珈琲を露天の地に植えしが発育宜しからざるを以て充分培養に力を盡し終に繁茂をなさしめたり。

靉靆山の陰窮地

に移植したるも

のは是発育力甚だよろしかりしと云う。

現在靉靆山に栽植するものは12年に播種し13年の春季に苗木を移植したるものなり。能く此の土地に適せしかよく14年より花を開き少許の結果を得たり。

15年に至りては結果甚だ多くこの秋収穫した

る子実の外皮を去りくるもの3目貫目余り入りたる箱4個を府応に送致したり。この後16年暴風雨に逢い

頗るしたりしが漸々蘇息して目下茂成収実するもの凡そ3万本に下らず。

コシュルートコーヒーを除くの外は大抵枯死せり。唯時雨山に移植せしリベリアンコーヒーは漸く辛うじて生育せしも尚遂に結実せず。

独り靉靆山に植付けしコシュルートコーヒー種のみは12年に

採種せしものを働13年に移植せしにこの翌年には花を開き実を結び同15年

よりは盛に結実し採収し得るに至れり。但しこの樹は風害に○易きの故に防風林なき地には生長せざるも又収利の点に於いて甘蔗(サトウキビ)に如かざる等の諸因により

一般にこれを栽培するものなし。

 

 

 これらの文献から以下のようなことが分かります。

 

あ)コーヒー種により枯死するものもあったが、好成長の種もあった。小笠原島志は上記転載文の前に7種のコーヒー種の名称があります。現在の名称とは同一ではありませんが、かなり専門的な言及ですので、関係者への取材あるいは関係者からのリ リースによる情報と思われます。その1種が好生育だったようです。当時のジャワのコーヒーはアラビカ種で、リベリア種は入ったばかりでした。爪哇荷入ったばかりのリベリア種含まれまれていますが、他はアラビカ種の交配種であったと考えられます。ちなみに現在のジャワコーヒーはロブスター種です。  (――>板西規四、珈琲全書)

 

 い)平地での成育はよくなかった。時雨山(しぐれやま)のものは結実しなかった。八瀬川流域の平坦な土地は肥沃ですが、水はけの点で、コーヒー栽培には適していなかったと考えられます。その点で山の斜面はコーヒー向きでしたが時雨山南面は日当たりが強かっ

たと考えられます。

 

う) 靉靆山(あいたい山)と棚挽山(たなびきやま)の日陰の多い場所での生育はすこぶる良かった。 靉靆山 棚挽山は同じ山の別な呼び名で現在のコーヒー山のことです。そして、その陰窮地すなわち日陰のある斜面が一番適していたということです。コーヒー樹は暑さを好みますが、夏の直射日光で葉が焼けます。ですから、夏は日除けをするか、半日陰にしてあげる必要があります。

 

え)明治12年には結実するものがあった。それらを播き苗木を作って移植した。14年には花の咲くものもあり、いくらかの結実があった。明治11年にジャワから買い付けた苗木を植え付けたのが12年に結実したということは、苗木は1~2年樹だったことになります。12年の種子を収獲直後に播いた場合1~2か月で発芽し、13年の春に移植し

た場合早いものは発芽2年目の14年には花が咲きます。花が咲けば結実があります。これらの記述は二誌がほぼ同文で記述していることから、情報原は関係者なり、関係からのリリースによるものだったと考えられます。

 

お)明治15年には結実多く3貫入り箱4個程度の収獲があった。12貫だったとすると45kg程度だったことになります。

 

  最初の収獲物はーー>品評  (――>   )

 

 か)明治16年に台風被害があったが、その後挽回して最盛期には収獲できるコーヒー樹は3万本以上にとなっている。これは計算では46トン程度となり当時の日本にコーヒー需要とほぼ同じで した。

  (――  >  )15kgx3000本

 コーヒー樹は気候風土が合えばその栽培は難しくないと言われます。藩種後1~2か月で発芽しその年に移植できます。根を張る速度も早く、挿し木でも繁殖簡単といわれています。その後増殖は順調に進み、樹数も爆発的に増えたものと思われます。担当した農夫も合計24名でした。

 

き)相次ぐ台風被害があったり、小笠原島でのサトウキビの栽培が盛んとなったりしてコーヒーは採算性の点で主産業にならなかった。

 

  田中芳男と武田昌次によって推進された小笠原島のコーヒー栽培は、以上のようになりましたが、明治27年には田中芳男の子節太郎氏が琉球八重山列島の西表島にて小笠原島の珈琲苗木を持ち込み栽培しました。田代定定氏が台湾に小笠原島の珈琲苗木を試植しました。 (ーー>奥山儀八郎、珈琲遍歴p95)

 

 

 

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