2)大久保利通と田中芳男と武田昌次


 

「大日本農史」によると、明治6年(1873)11月に文部省から分省し内務省が作られ、明治7年(1874)1月に勧業寮が設置されました。(大日本農[3] 今世p2) 勧業寮とは現代風に言うと“産業振興局”です。明治10年には勧農局と名称換えがされました。当時の日本の主な産業はやはり農業で、振興政策の中心は農業でした。勧農局は現代風に言えば「農業振興局」あるいは「農政局」と言えます。

 

産業育成を目指した明治新政府の組織を理解すると、養蜂の起源がより良く理解できます。東京農業大学教授友田清彦氏は次のように記述しています。

 

  内務省期における勧農政策展開の担い手となった農政実務官僚のうち最上層部を形成する官僚の多くは明治4年(1871)から同6年(1873)にかけて行われた岩倉使節団の米欧回覧および明治6年に開催されたオ-ストリアのウィーン万国博覧会に直接関係を有する人であった岩山敬義、田中芳男、佐木長淳、池田謙蔵、関沢明清、前田正名、井上省三などであり彼らの人的なネットワクこそが内務省期における勧農政策展開の推進力となったのである。

 

 (内務省期における農政実務官僚のネットワク形成:友田清彦、論文農村研究104号、2007)

 

 

    後に養蜂施策を行った田中芳男と武田昌次はウィーン万国博覧会の主要メンバーでした。「ウィーン万国博の研究」(角山幸洋著)によると、ウィーン万国博覧会派遣団メンバーは以下のようでした。

 

総裁         大隈茂信  佐賀県士族 参議

副総裁        佐野常民  佐賀県士族 工部 三等出仕 (52)

一級書記官      山高信離  浜松県士族 正院 六等出仕 (32)

二級書記官 鑑識   石川 厳  浜松県士族 当局 八等出仕 (36)

一級事務官 列品   関沢明清  石川県士族 正院 六等出仕    

一級事務官 編    古川正雄  浜松県士族 正院 六等出仕 (37)

一級事務官 編    近藤真琴  度会県士族 海軍 六等出仕 (43)

一級事務官 列品   田中芳男  東京府士族 文部 六等出仕 (36)

一級事務官 会計   竹内正雄  静岡県士族 工部 六等出仕 (38)

一級事務官 列品   塩田 真  長崎県士族 工部寮七等出仕 (37)

一級事務官 鑑識   佐々木長淳 敦賀県士族 勧工寮七等出仕 (43) 

二級事務官 鑑識   石田為武  佐賀県士族 当局 八等出仕 (37)

二級事務官 英国列品 武田昌次  東京府士族 当局 八等出仕 (38)

二級事務官 鑑識   藤山種広  佐賀県士族 勧工寮九等出仕 (34)

二級事務官 仏訳弁課長山崎直胤  木更津県士族工部技術二等中師(22)

三級事務官 訳弁   今村有隣  石川県士族 主船寮八等出仕 (28)

三級事務官 訳弁   相原重政  静岡県士族 文部 九等出仕 (27)

三級事務官 訳弁   東条一郎  青森県士族 外務 十等出仕 (25)

三級事務官 訳弁   富田淳人  長崎県平民 工学寮十等出仕 (25)

三級事務官 訳弁   諸方道平  大阪府士族 当局 十等出仕 (27)

三級事務官 訳弁   和田収蔵  東京府士族 当局 十等出仕 (22) 

三級事務官 訳弁   平山成一郎 静岡県士族 当局十一等出仕 (21)

三級事務官 訳弁   竹内 毅  敦賀県管下 出納寮 少属  (39)

三級事務官 訳弁   朝日 升  東京府士族 当局十二等出仕 (37)

御用掛        岡本健三郎 高知県士族 大蔵大     (38)

 

(以下略)

 

ウィーン万国博の研究(角山幸洋、平成11年、1999)

 

 

 

 友田清彦氏の「内務省期における農政実務官僚のネットワク形成」(論文農村研究第104号、2007)にもウィーン万国博覧会派遣団メンバー(一部)が掲載されています。

 

副総裁     伊澳両国弁理公使 佐野常民   佐賀52歳

一級書記官   正院六等出仕   山高信離   東京32歳

一級事務官   正院六等出仕   関沢明清   石川30歳 水産漁業

同       文部六等出仕   田中芳男   東京36歳 博覧会博物館

同       工部七等出仕   塩田真    佐賀37歳

同       勧工寮七等出仕  佐々木長淳  福井43歳 養蚕法

二級事務官   工部技術二等中師 山崎直胤   大分22歳

同                武田昌次   東京38歳 英国博覧会参加 

同                富田淳久   長崎    同上 

同                阪田春雄   佐賀23歳 同上

三級事務官   事務局十等出仕  山林諸科   大阪27歳

同       事務局十一等出仕 平山成一郎  東京21歳

三級事務官心得 事務局御雇    津田仙    千葉35歳 樹芸法

随行      製茶商      松尾儀助   佐賀36歳 起立工商会社

同       糸茶商      円中文助   石川23歳 製糸

同       植木職      内山半右衛門 東京24歳 園庭築造

同       同        宮城忠左衛門 東京39歳 園庭築造

随行雇外国人

列品幵物品出所取調技術誘導 (独)ドクトルワグネル

通弁及編集         (独)ヘンリホンシボルト

建築            (独)グレベン

 

 内務省期における農政実務官僚のネットワク形成」(論文農村研究第104号、2007)

   

  明治7年に明治政府の組織に主要人材が適所配置され、ウィーン万国博覧会派遣団の責任者であった田中芳男と主要メンバーであった武田昌次は大久保利通率いる内務省に招聘され、勧業寮に配属されました。明治7年(1874)の内務省勧業寮組織図は下記のようです。

 

内務卿参議  大久保利通

 

【勧業寮】

 頭       ――

 権頭兼内務大丞 河瀬秀治

 助       古谷簡一

 権助      岩山直樹

 六等出仕    田中芳男

 七等出仕    佐木長淳

         富田冬三

         青山純

 大属       鈴木利享

         尾高惇忠

         服部五十二

         門馬崇経

 八等出仕     武田昌次

 中属       鳴門義民

 権中属      織田完之

 十二等出仕    舟木真

 

内務省期における農政実務官僚のネットワク形成」(論文農村研究第104号、2007)

 

友田清彦教授の論文一覧はこちらーー>

http://dbs.nodai.ac.jp/view?l=ja&u=365&sm=&sl=&sp=&c=ronbn&dm=0

 

 

 

 大久保利通は維新後はノーサイドとし、実力本位で人材を登用しました。その結果、多くのかつての徳川家臣たちが明治新政府に登用されました。大久保利通は中央、大久保利通の向かって右4人目が田中芳男、6人目が武田昌次です。この写真の中に、河瀬秀治(宮津藩)、渡辺洪基(越前藩)、宇都宮三郎(尾張藩)、山高信離(幕臣)、前島密(幕臣)、楠本正隆(大村藩)、大鳥圭介(幕臣)、鈴木利亨(幕臣)、多田元吉(幕臣)、近藤真琴(鳥羽藩)、伊藤圭介(尾張藩)らが確認されています。

 

 (第一回内国勧業博覧会関係者集合写真 明治10年、1877)

 

 

   田中芳男

 

田中芳男は明治7年に大久保利通率いる内務省に招聘され、勧業寮すなわち「産業振興局」に配属されました。徳川幕府の役人であった人物の多くが維新新政府に招聘されましたが、田中芳男もその一人でした。勧業寮の振興政策の中心は前述のように農政で、田中芳男は植物博士として、その豊富な知識を生かし中心的な存在となりました。

 

 ウイーン万国博覧会で「独逸農事図解」の原板を入手し日本に持ち帰り、明治8年(1875))に出版たのも、「大日本農史全3冊」(明治24年、1891)を編纂したのも田中芳男です。田中芳男は日本で薬用植物、コーヒーなどの亜熱帯植物の植育をめざしていました。コーヒーの苗木を大量に買い付けることを建議したのも、それを小笠原島に移植するのを推進したのも田中芳男でした。

 

  田中芳男は内務省勧業寮(後の勧農局)書記官を経て内務省博物局長に就任しました。

この期間中に、明治8年(1875)には上野公園設計に携わり、博物館と動物園を設置し、一時期館長を務めました。明治11年(1878)には駒場農学校の設立にたずさわりました。駒場農学校は現在の東大農学部の前身です。また、明治14年(1881)には、大日本農会の結成に尽力しました。

 

  武田昌次

 

 田中芳雄男の右腕的存在だったのが武田昌次です。武田昌次は語学堪能で、植物学・動物学に通じていました。小笠原島の コーヒーと西洋蜜蜂の歴史は田中芳男と武田昌次のネットワーク上で展開していきます。

 

 武田昌次の経歴と足跡に関しては 付5)武田昌次の足跡 と、付6)武田昌次は幕臣塚原但見守昌義  に詳細を記述しました。